郭沫若詩集
        近代中国詩家絶句選(7)

    郭沫若  

郭沫若(1892〜1978)1925年、五・三〇事件以後急速に左傾し、プロレタリア文学の重鎮となった。全国人民代表大会常務服委員長・科学院院長・日中友好協会名誉会長などの要職など歴任した。


  原來壽母是同郷 四首 (一)
原來壽母是同郷。   原來 壽母 是れ同郷
高北門邊春日長。   高北門邊 春日長し
天外峨眉雲外月。   天外の峨眉 雲外の月
影随江水入瀟湘。   影は江水に随い 瀟湘に入る

壽母⇒田漢の母親。田漢は湖南長沙人。五四運動以来、無産階級劇作家


  原來壽母是同郷 四首 (二)
原來壽母是同郷。   原來 壽母 是れ同郷
蜀国西帰問海棠。   蜀国 西帰して海棠に問う
不憶胡塵迷禹甸。   胡塵 禹甸に迷うを憶わず
海棠香国叉聞香。   海棠の香国 叉た香を聞く


胡塵⇒当時已に淪落の湖南・禹甸・地域などを指す    
海棠香国⇒四川樂山一帯は海棠を栽培し、歴來に海棠香国と有り


  題贈董老画二絶 (一)
六十華年与歳新。   六十 華年と歳新と
朋簪此日慶同春。   朋簪 此の日 春を同じゅうするを慶ぶ
方今天下何多譲。   方に今 天下 何ぞ多くの譲なるべし
領異群倫要認真。   異を領す群倫 認真を要す


譲⇒攘に通じ、侵犯。侵奪。   群倫⇒群衆。


  帝子二絶 [一]
帝子依稀泪却無。   帝子 依稀として泪 却って無し
女児偏愛在詩書。   女児 偏に愛す詩書に在り
閑來偶傍幽篁坐。   閑來 偶傍 幽篁に坐す
不料無心入画図。   料らず無心に 画図に入る


帝子依稀⇒即、依稀帝子。帝子≪楚辞・九歌・湘夫人≫


  題幼女図
蘆葦深処鷺双飛。    蘆葦 深き処 鷺双飛する
駐漿回看笑満衣。    漿を駐め回り看て笑い衣に満つ
天外秋風無信息。    天外の秋風 信息無く
漣猗未上女児眉。    漣猗 未だ上らず女児の眉



   題打漁殺家図
英雄老去隠漁家。   英雄 老い去り 漁家に隠れる
失水魚龍困蟹蝦。   水を失う魚龍 蟹蝦に困る
打尽天涯不平事。   天涯に打ち尽くす不平の事
江湖気魄女児花。   江湖の気魄 女児の花

    此の詩1944年5月21日作、戯曲は伝統の劇目。  英雄⇒蕭恩を指す


   觀≪両面人≫ (三)
品罷茶経読易経。   茶経を品罷め 易経を読む
頓従馬将悟人生。   頓に馬将に従い人生を悟る
東西南北随風轉。   東西南北 風に随い轉ずる
誰想牌牌一色清。   誰が想う牌牌 一色清

     馬将⇒マージャン


  畳和亜子先生 四首(一)
世間只見人吃人。   世間 只だ人は 人を吃うを見る
山中未聞虎吃虎。   山中 未だ虎は 虎を吃を聞かず
我亦未賞自称王。   我も亦た 未だ自ら王と称するを 賞せず
人之王者自比虎。   人之王者 自ら虎に比らべる


  題傳抱石薫風曲図
阮咸撥罷意低迷。   阮咸 撥き罷め 意 低迷す
独坐瑶階有所思。   瑶階に独坐し 所思あり
一曲薫風無処寄。   一曲 薫風 処として寄るに無し
芭蕉葉緑上蛾眉。   芭蕉 葉は緑 蛾眉に上る


傳抱石⇒(1904〜1965)現代画家。美術教育家。
阮咸⇒撥弦樂器。古琴の一種、四弦柱有り。此の樂器を善く弾く。


   題柳浪図
楊柳絲絲払浪垂。   楊柳 絲絲 浪を払うて垂る
江南春色是耶非。   江南の春色 是か非か
蜀山帰后身如寄。   蜀山 帰后 身 寄せるが如く
彷彿緑陰有子規。   彷彿たり緑陰 子規あり


  補題湘君湘夫人
古帝南巡不計年。   古帝の南巡 年を計らず
蒼梧遥望恨綿綿。   蒼梧 遥かに望み恨み綿綿たり
至今猶有湘妃竹。   今に至り猶ほ有り湘妃の竹
往日啼痕个个圓。   往日 啼痕す个个に圓なり

古帝⇒虞舜を指す。劉向≪烈女伝≫舜陟方死于蒼梧。


  贈張端芳
風雷叱罷月華生。   風雷 叱り罷め 月華 生ず
人是嬋娟倍有情。   人は是れ嬋娟 倍々情あり
回憶嘉陵江畔路。   回憶す嘉陵 江畔の路
湘累一曲伴潮生。   湘累一曲 潮生に伴う

湘累⇒屈原を指す。≪漢書・楊雄伝上≫


  題関山月画 六首 (一)
大地無言是我師。   大地 無言 是れ我が師なり
陸離生動孰愈之。   陸離 生動 孰れか之に愈る
自従産出山人画。   自から産出による 山人の画。
只見山人画産児。   只だ山人を見て 産児を画く


山人画⇒八大山人。清初の画家。


  訪徐悲鴻酔題
豪情不譲千種酒。   豪情 譲らず千種の酒
一騎能冲萬仞関。   一騎 能く冲す萬仞の関
彷彿有人為撃筑    彷彿たり人の撃筑する為に有り
盤谿易水古今寒。   盤谿 易水 古今寒し


  詠 史 四首 (一)
雷鳴瓦釜黄鐘毀。   雷鳴 瓦釜 黄鐘の毀。
做到黄鐘願亦償。   黄鐘を做り到り願い亦た償う
自有陽春飛白雪。   自から陽春の白雪を飛ばす有り
難同下里競宮商。   下里に同して宮商を競い難し


 雷鳴⇒≪文選・屈原<ト居>≫
 瓦釜⇒比喩、下の人。  
 陽春白雪⇒高尚な曲調を指す  
 宮商⇒音楽を指す


  詠 史 四首 (二)
龍逢当日亦為逆。   龍逢 当日 亦た逆と為す
伍子精誠尚湧潮。   伍子 精誠 尚ほ潮を湧く
一片流雲飛過后。   一片の流雲 飛び過ぐる后
中天仍見月輪高。   中天 仍ほ月輪の高きを見る


龍逢⇒夏代末年の大臣で夏桀暴虐荒、長夜の飲。
伍子⇒伍子しょ。
精誠⇒猶精神。忠魂。
月輪⇒一輪の明月を言う。


  送茅盾即席賦詩
不辞美酒幾乾杯。   美酒 幾たびか杯を乾かすを辞せず
頓覚心頭帯怒開。   頓に覚ぼゆ心頭 怒を帯びて開く
今日天涯人尽酔。   今日 天涯 人 尽とく酔う
澄清総得頼奇才。   澄清 総て奇才に頼り得たる

  船泊石城島畔雑成 四首 (一)
天馬行空良可擬。   天馬 空を行く 良ことに擬うべし
踏破驚涛萬里程。   踏破 驚涛 萬里の程
自慶新生弥十日。   自から慶ぶ 新生 十日に弥ねし
北來真个見光明。   北來 真个 光明を見る

 天馬行空⇒騰空飛行。才思豪放を比喩する。
 弥⇒満。


  宮島即景 三首(一)
宮島窗前立。   宮島 窗前に立つ
慇懃対我招。   慇懃に我に対し招く
此來雖歳暮。   此に來り 歳暮と雖も
再至待花朝。   再び至り花朝を待つ

  花朝⇒@花の咲いている朝。A花の咲き始めるころ。
  陰暦二月十五日のこと。


  訪広島
一夢十年遊。   一夢 十年の遊
再生似鳳凰。   再生 鳳凰に似る
海山長不老。   海山 長じて老いず
人世樂安康。   人世 安康を樂む


  宿春帆楼
六十年間天地改。   六十年間 天地改たむ
紅旗挿上春帆楼。   紅旗挿上 春帆楼
晨輝一片慇懃意。   晨輝 一片 慇懃の意
泯却無辺恩与仇。   泯却す無辺 恩と仇と


  題済南李清照故居
一代詞人有旧居。   一代の詞人 旧居あり
半生漂泊憾如何。   半生の漂泊 如何を憾む
冷清今日成轟烈。   冷清 今日 轟烈と成る
伝誦千秋是著書。   千秋を伝誦す是れ著書



  題成都帯江草堂
山洞橋邊春水生。   山洞 橋邊 春水 生ず
帯江草堂万花明。   帯江 草堂 万花 明なり
烹魚斟満延齢酒。   魚を烹 斟満 延齢酒。
共祝東風萬里程。   共に東風 萬里の程を祝う


  題郁曼陀画・二首(一)
陰雨連天已解除。   陰雨 連天 已に解除
清新情調意蕭舒。   清新 情調 意 蕭舒たり
悄然嘱目沈吟処。   悄然として嘱目 沈吟する処
応是富春江上図。   応に是れ富春 江上の図

  蕭舒⇒瀟洒


  回昆明
熱帯帰来秋気凉。   熱帯 帰来 秋気 凉なり
昆明彷彿是天堂。   昆明 彷彿たり 是れ天堂
大觀楼下低徊久。   大觀楼下 低徊すること久し
喜見茶花上海棠。   喜び見る茶花 海棠の上るを


  詠梅二絶有憶梅蘭芳同志 二首(一)
漫誇疏影愛横斜。   漫に疏影に誇る 横斜を愛す
鉄骨凌寒笑腐鴉。   鉄骨 寒を凌いで 腐鴉を笑う
瀝血喚回春満地。   瀝血 喚び回る 春 地に満つ
天南地北吐芳華。   天南地北 芳華を吐く


  木蘭陂 六首 (一)
清清渓水木蘭陂。   清清たる渓水 木蘭陂
千載流傳頌美詩。   千載 流傳す頌美の詩
公而忘私誰創造。   公に而て私を忘れ誰が創造す
至今人道是銭妃。   今に至る人道 是れ銭妃

  公而忘私⇒公のために尽し、私事を顧みない


  木蘭陂 六首 (二)
双手捧銭仍十八。   双手 銭を捧げ仍ほ十八
四娘恵徳感人深。   四娘 恵徳 人深を感じる
併将一死酬労役。   一死を併せ将って労役に酬いる
日月長懸照此心。   日月 長懸 此の心を照らす


  黄山即景 (杜鵑花)
杜鵑豪放吐紅霞。   杜鵑 豪放 紅霞を吐く
霧満黄山山満花。   霧は黄山に満ちて 山は花に満つ
雲気就山還就我。   雲気 山に就き 還た就我に就く
無須伸手即能拿。   すべからく手を伸ばす無く即ち拿くに能う



参考資料:郭沫j若旧体詩詞系年注釈
王継権・姚国華・徐培均
黒龍江人民出版社


我が国、中国現代文学者の旗手。藤井省三氏(東京大学教授)は「留学生と恋愛した日本女性」韓瑞穂が見た国内戦と題しNHK中国語講座2002/6で郭沫若に就いてのエピソードを紹介している。

 日本留学生が1921年。東京で発足させた文芸サロン創造社の主要メンバーある郭沫若は東京・聖路加病院看護婦の佐藤をとみ(1895〜1994)と1916年末に結婚している。

37年に日中戦争が始ると郭沫若は亡命先の日本を脱出して抗日戦線のため帰国する。残された佐藤をとみは一人で五人の子供を育て上げる。日本敗戦後に香港の夫のもとに駆けつけると、郭はすでに于立群と結婚し同じく5人の子供の父となっていた。

をとみの妹佐藤みさを(1899〜1993)は(現)東京津田塾大学卒業後、仙台の母校・尚絅女学校の教師となり、1922年の夏休み、4年前に郭が(現)九州大学医学部に進学したのにともない、福岡に転居していた姉を訪ねて行ったところ、郭の医学部の後輩である陶晶孫(1897〜1952)と知りあい2年後に結婚している。

陶とみさをとの間には3人の子供が生まれ、戦後に陶は日本に亡命し東京大学で中国文学を講義したが、1952年、肝臓ガンで逝去した。夫の没後、みさをは私立舟橋学園女子高校で英語の教師となっている。

佐藤姉妹よりのちお1943年に留学生と結婚して翌年北京に渡り、日中戦争から中国革命、文化大革命から『血の日曜日』事件まで60年の現代史を目撃して来た女性が韓瑞穂である。                中国を見た日本人・・・・・・近代150年の交流体験。   (抜粋)
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参考資料:NHK中国語講座



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