太平廣記 巻第二百九十一               
  屈原                       
 屈原以五月日投汨羅水。而楚人哀之。至此日、以竹筒貯米、投水以祭之。
  漢建武中、長沙區曲、白日忽見一士人。自云三閭大夫。謂曲曰「聞君當見祭。甚善。但常年所遺、恆爲蛟 龍所竊。今若有惠、可以楝葉塞其上。以綵絲纒之。此二物蛟龍所憚也。」曲依其言。

   今世人五月五日作粽、並帶楝葉及五色絲。皆汨羅水之遺風。
                       (出『續齊諧記』)
【訓読】
 屈原五月日を以て汨羅水に投ず。而して楚人 之を哀む。此の日に至り、竹筒を以て米を貯へ、水に投じて以て之を祭る。
漢の建武中、長沙の区曲(おうきよく)、白日に忽ち一士人を見る。自ら三閭大夫と云ふ。曲に謂ひて曰く、「聞く君当に祭らるべし。甚だ善し。但だ常年遺(おく)る所、恒に蛟龍の窃(ぬす)む所と為る。今若(も)し恵む有らば、楝葉を以て其の上を塞ぎ、綵糸を以て之に纏(まと)ふべし。此の二物は蛟龍の憚(おそ)るる所なり」と。曲其の言に依る。
 今世人五月五日に粽(ちまき)を作るに、並びに楝葉及び五色の糸を帯ぶ。皆な汨羅水の遺風なり。

【語注】
屈原 (前三三九~?)。戦国時代の楚の人。楚王の一族、名は平(へい)、字は原、号は霊均、懷王の時、  三閭大夫となったが人のそねみを受け追放され、「離騒」を作って志を示した。襄王の時、再び追われ汨羅  江に身を投げて自殺した。『史記』巻八四に伝がある。
汨羅水 川の名。現在の湖南省北東部を流れ、洞庭湖の南側に注ぐ。
區曲 人名。詳細は未詳。『史記』の正義に引く『続斉諧記』では、「區回」に作る。
建武 後漢の光武帝の年号。二五~五六。
長沙 地名。現在の湖南省長沙市。
○三閭大夫 屈原の官職名。後漢王逸『離騒』序「屈原與楚同姓、仕於懐王為三閭大夫。掌昭、屈、景三姓貴  族。」[王逸・離騒の序。屈原は楚と姓を同じゅうす。三閭大夫と為り懐王に仕(つか)えた。戦国、楚の官名、  昭、屈、景の三姓の貴族を掌(つかさど)る。]
蛟龍 みずちと龍。あるいは一物で龍の一種。一説に、みずちは角の無い龍という。『荀子・勧学篇』に「積水  成淵、蛟龍生焉、」と有る(積水淵を成して蛟龍生ず、)
楝葉 栴檀科の落葉樹の葉。
粽 ちまき。その由来は、この話に記されているのが最初である。
『續齊諧記』 梁の文人、呉均(四六九~五二〇)が撰した小説集。『隋書』巻三三「経籍志二・史部雑伝類」  『旧唐書』巻四六「経籍志上・史部雑伝類」、『新唐書』巻五九「芸文志三・子部小説家類」にそれぞれ呉均  の撰として「続斉諧記一巻」が著録されている。現在では、『古逸叢書』や『顧氏文房小説』などに一巻十七  条が収められている。書名は『荘子』逍遙遊の「齊諧者、志怪者也。」(斉諧は、怪を志(しる)す者なり。)とい  うことばに基づいており、劉宋の東陽无疑が撰した『斉諧記』(魯迅輯『古小説鉤沈』所収)の続作とされる。  内容は神怪の異聞を中心とし、その中には当時の風俗や伝説に関する話もみられる。校注本には王国良『  続斉諧記研究』(文史哲出版社、一九八七年)がある。この話は『史記』巻八四屈原列伝の正義に引用され  ている。                                                                       
     (七言律詩)李商隠
  湘波 涙の如く 色漻漻たり
  楚〔示+厲〕の迷魂 恨みて逐いて遥かなり
  楓樹 夜猿 愁いて自ら断たる
  女蘿 山鬼 語りて相い邀う
  空しく腐敗に帰す 猶お復し難し
  更に腥臊(月+〈操-手偏〉)に困しめらる 豈に招き易からん   但だ使し故郷に三戸在らば
  綵糸 誰か惜まん 長蛟を懼れしむるを
   この詩は、屈原の無念を稍グロテスクな場面も織り交ぜつつも、彼  の名詩「楚辞」にあるキーワードを   鏤めながら、楚の人々に慕われ続   ける大詩人に思いを馳せて無念のうちに身を投じた先輩詩人に、や  はり自分自身を投影している。たとえ、思いがかなわずに自分の命を落とすことになろうとも、分かってくれ   る人が一人でもいてくれたらいい。そ  の人たちが熱い思いを持っていてさえくれたなら必ずや繋いでくれ  るは   ず、そのためには、生きている間には思いのたけを詩に詠んでおきたい。その詩こそが人々の心  を動かすのだから。そんな決意を李商隠は屈原に事寄せて詠じている
【 漢書藝文志】
  屈原の賦二十五篇 楚懐王大夫、有列傳。
  屈原は名は平、原は字。楚の懐王に仕えて左徒となった。同輩の讒言に遇い、王に疎んぜられて離騒を作  った。懐王の子の頃襄王のとき令尹(副王)の怒りを受けて、さらに江南に流され、憔悴の身で江辺をさまよ  い、懐沙の賦を作り汨羅に身投げして死んだ。史記第八十四巻に屈原賈誼列伝がある。屈原賦二十五篇と  は楚辞離騒経一篇、九歌十一篇、天問一篇、九章九篇、遠遊・卜居・漁夫と宋玉の九弁・招魂、それに景   差の大招を集め、さらに賈誼の惜誓、准南小山の招隠士・棟方朔の七諫、厳忌の哀時命、王褒の九懐、劉  向自作の九嘆を合わせて楚辞十六巻とした。その後、後漢の王逸がこれに自作の九思と斑固の二叙を加   えて十七巻とし、註を作った。

【古文眞宝(こもん しんぽう)】書名。宋末~元初の黄堅の編。戦国時代から宋までの詩文を文類し前集に詩。  後集に文を収めている。
  (古文眞宝前集巻之八)屈原枉死汨羅(べきら)水。「枉死とは死な無くても好いのに死すること。新たに沐す  る者は必ず冠を弾く、新たに浴する者は必ず衣を振るうと続く 洗髪したての者は必ず冠を弾いて塵を払い、入浴したれの者は必ず衣を振るって埃を落とす」潔癖で非妥協的な屈原が官位剥奪され江南に流された時、 一人の漁夫が世俗の流れに従うよう忠告した。屈原は答え、断じて汚濁を受け付けない意志を表明した。そ の後、この言葉は世俗の汚れを拒否する比喩として流布する。

【 蒙求(もうきゆう)】 書名。三巻。五代の後晋(こうしん)の李澣(りかん)の著。古人の逸話を類集したもの。子   供が記憶しやすいように四字句の韻語を配列してある、因って日本でも「寺子屋」などで漢文素読など子供  の教育書とした。
蒙求 三○九 屈原澤畔(くつげんたくはん) 漁夫江濱(ぎよふこうひん)。
[訓読]
  史記にいう、屈原 名は平、楚の同姓、懐王の左徒たり。博聞強志、治乱に明らかに、辞令に嫺(なら)へり。 王甚だ之に任ず。上官大夫之と列を同じくし、寵を争うて心に其の能を害(そね)む。因つて之を讒す。王 怒つ て平を疎んず。後 秦の昭王と会せんと欲す。平曰く、秦は虎狼の国なり。行くこと無きに如かず、と。懐王の 稚子蘭王(ちしらんおう)に勧めて行かしむ。王、秦に死し、長子頃襄(ちようしけいじよう)王立ち、子蘭を以て  令尹(れいいん)と為す。子蘭、上官大夫をして原を王に短(そら)しむ。王怒りて之を遷す。原江濱に至り、髪を 被(こうむ)り、澤畔に行吟す。顔色憔悴、形容枯槁(ここう)す。漁夫問ううて曰く、子は三閭大夫に非ずや。何 が故に此に至れる。と。原曰く、世を挙げ混濁にして我独り清めり。衆人皆酔うて、我独り醒めたり。是を以て 放たる、と。漁夫曰く、夫れ聖人は物に凝滞(ぎようたい)せずして、能く世と推移す。世を挙げて混濁ならば、 何ぞ其の流れに随ひて其の波を揚げざる。衆人皆酔はば、何ぞ其の糟を食らうて其の醨(しる)を啜(すす)らざ る。何が故に瑾を懐き瑜を握りて自ら放たれしむることを為す、と。原曰く、吾之を聞けり。新たに沐する者は  必ず冠を弾き、新たに浴する者は必ず衣を振ふ、と。誰か身の察察たるを以て、物の汶汶たるを受くる者なら んや。寧ろ湘流に赴きて江魚の腹中に葬られんのみ。又安んぞ能く皎皎の白を以て、世の塵埃を蒙(こうむ  )らんや、と。乃ち懐沙の賦を作り、石を懐き、自ら汨羅に投じて以て死せり。後 百余年、賈生長沙王(かせい ちようさおう)の太傅(たいふ)と為り、 湘水を過ぎり、書を投じて以て之を弔ふ。

 漁夫は屈原が、自分の忠告を受け入れないので、船歌をうたって去ったという箇所は『楚辞』の漁夫篇に基  づく。
 『史記正義』に註された続齊諧記にもとずいたもので、妻は正義では、長沙の(区回)という人になっている。『 正義』には粽は「あうち」の葉で包み、五色の糸をかけ、蛟龍に横取りされないようにしたとある。これが我が 国の柏餅や薬玉の謂われるとされている。
  
 
 『荊楚歳時記』につくる、五月五日、競渡、ボートレースを行うのは屈原を弔う行事であり、長崎では華僑が伝 えた競渡をペーロンと称し、今日でも初夏に盛んに催される。


    読楚辞

  香草美人千載魂。     香草 美人 千載の魂
  三閭屈子遇讒言。     三閭の屈子 讒言に遇う
  何為漁叟滄浪賦。     何ん為ぞ漁叟 滄浪の賦
  湘水滔々似訴冤。     湘水 滔々 冤を訴えるに似たり




  (石 九鼎)