榎本武揚

柳村榎本武揚、静岡県人。通称釜次郎、梁川と号す、旧徳川幕府の勘定役榎本園兵衛の次男とし天保七年八月二十五日、江戸にて生。幼時昌平黌に学び才名あり、嘉永六年長崎に遊学、蘭人に就き蒸気機関車・航海学を学び後、海軍操練所教授、又、蘭国留学を命じられ、留まる事六年偶偶丁墺の戦争あり其の実況を視察し慶應二年帰朝。軍艦乗組頭取、慶應三年幕府大政奉還事後、奧羽の諸藩兵を率いて洋艦に乗り函館に脱走、五稜郭拠り官兵に抗す黒田清隆の勧めにより降りる事を請い囹圄に在ること数年後聖恩の宏謨に浴し青天白日の身となる。明治五年開拓使四等を命ぜらる、七年海軍中将に任じ特命全権公使として露国在勤赴任後、千島樺太交換条約を終結。十五年八月駐清特命全権公使に兼任し伊藤全権大使と共に、天津条約を終結。帰朝後十八年逓信大臣、二十一年臨時農相務大臣、二十四年外務大臣。湘南事件起るや再び職を辞し枢符に入る。四十一年十月二十六日病を以って逝去。年七十三。

    欧州客舎作
乾坤到処為吾蘆。   乾坤 到る処 吾が蘆と為す
酔則喫茶醒閲書。   酔ば則 茶を喫し 醒めては書を閲す
老母不老情味適。   老母 老いず 情味 適す
今年又是倚門閭。   今年 又た是れ 門閭に倚る

    逸 題
鮮血痕留旧戦袍。   鮮血 痕留 旧戦袍
杜図一躓気何豪。   杜図一躓 気 何れの豪
松陰凉動羽州道。   松陰凉動 羽州の道
白雪掛天鳥海高。   白雪 天に掛る 鳥海高し

    入蝦夷
去国誰論王蠋忠。   去国 誰か論ぜん 王蠋の忠
奮然琿袂任西東。   奮然とし 袂を琿し 西東に任す
丹心不許傍人説。   丹心 許さず 傍人の説
源九郎逃入蝦夷。   源 九郎 逃し 蝦夷に入る

     有感時事
勲閥名門悉倒戈。   勲閥 名門 悉く戈を倒す
祖宗百戦奈山河。   祖宗 百戦 山河をいかんせん
誰図開化文明日。   誰か図る開化 文明の日
翻見乱臣賊子多。   翻って乱臣 賊子の多きを見る

      波 岡  (就因赴東京途中岡在津軽
困睡朦朧登翠微。   困睡 朦朧 翠微に登る
子規声里雨霏霏。   子規声里 雨 霏霏たり
軋坤回首春如夢。   軋坤 首を回せば 春 夢の如し
頓見人間萬緑肥。   頓に見る 人間 萬緑肥たるを

      獄中作
幽邃如深口。   幽邃 深口の如し
人間信不通。   人間 信 通ぜず
朝朝又暮暮。   朝朝 又た暮暮
閑却幾英雄。   閑却す 幾く英雄

      因中作
自歎身世與心違。   自ら歎く 身世 心と違うを
胸裏汗青未治饑。   胸裏 汗青 未だ饑を治せず
天道耐疑又耐怨。   天道 疑に耐え 又た怨に耐る
人間誰是又誰非。   人間 誰か是れ 又た誰か非なる
故朋失路東西没。   故朋 路を失うて 東西に没す
老母在堂漁雁稀。   老母 堂に在り 漁雁 稀れなり
入夢昨冬酣戦日。   夢に入る 昨冬 酣戦の日
剣花和雪乱紛飛。   剣花 雪に和し 乱れて紛飛たり

      書感
菲特従来暗大機。   菲特 従来 大機を暗んじる
十年事業與心違。   十年の事業 心と違う
山川路隔向誰訴。   山川 路隔てて 誰に向うて訴える
天地家遥何処帰。   天地 家遥か 何れの処に帰る
白馬蹴氷渡絶境。   白馬 氷を蹴って 絶境を渡る
丹心貫日思王畿。   丹心 日を貫き 王畿を思う
此身縦令為蝦土。   此の身 縦え蝦土と為せしむるも
魂向慶應陵下飛。   魂は慶應陵下に向うて飛ぶ

       09/03/24     石 九鼎