王 国 維 (1877 1927)

王国維。字は静安。浙江省海寧出身。家に書籍多し、然し、十三経注疏ほ喜ばず、他は泛覧した、特に歴史書を愛読した。日清の役後、世に新学(西洋の学問のこと)の在ることを知った。十八歳と二十二歳の時、郷試を受けたが合格せず、これより試験を断念して、二十二歳の時、上海の新聞社に入る。同時に羅振玉の東文学社に入った。

東文学社では日本語を学び翻訳を学ぶ。「詠史絶句」で羅振玉に認められた、当時、藤田剣峰博士。田岡嶺雲に哲学を学び、英語を学び、「カント」「シーペンハウエル」を読んだ。1901年羅振玉の教育世界雑誌の主編となり、日本に留学し物理学校に入ったが幾何学に苦労し、やがて病を得て帰国した。帰国後は専ら西洋哲学に打ち込む。シーペンハウエルの「意志及び表象の世界」を愛読した。これを基にして≪人間詞話≫≪紅楼夢評論≫を書いた。

辛亥革命後、羅振玉に従って日本に亡命し京都に居住した。その頃、国学(中国本土の古典学)に転じ、考証学。考古学に成果をあげた。1916年帰国し学術雑誌の編集に当たり、音韻。甲骨文。古器物等の研究に従い『観堂集林』を出した。

1923年、清華研究院の教授となる。1927年6月2日、頤和園の昆明湖に自沈する。年50歳。≪海寧王忠?公遺書≫≪王観堂先生全集≫等あり。詩及び詞は多作せずとも自らは高く標榜し、詞の如きは≪五代北宋に接して、然も凌駕す≫と自称している。

   八月十五夜月
一餐霊薬便長生。     一たび 霊薬を餐してより 便ち長生
眼見山河幾変更。     眼に見る山河 幾変更するを
留得当年好顔色。     留め得たり当年 好顔色
嫦娥底事太無常。     嫦娥 底事ぞ 太だ無常なる

   詠 史
西域縦横尽百城。     西域 縦横 百城を尽くす
飛陳雄略遜甘英。     飛陳の雄略 甘英にゆずる
千秋壮観君知否。     千秋の壮観 君知るや否や
黒海西頭望大秦。     黒海西頭 大秦を望む

   詠 史
東海人奴蓋世雄。     東海の人奴 蓋世の雄
巻舒八道勢如風。     八道を巻舒して 勢 風の如し
碧蹄?得擒梁反。     碧蹄 もし かれを擒こにして反るを得ば
大壑何由起蟄龍。     大壑 何に由って蟄龍を起たしめん。

・・・・・・・・この詩は木下秀吉を詠じたもの。・・・・・・・・・・


    嘲杜鵑     杜鵑を嘲る
去国千年万事非。     去国 千年 万事非なり
蜀山回首夢依稀。     蜀山 首を回らせば 夢依稀たり
自家慣作他郷客。     自家 他郷の客に作るに慣れ
猶自朝朝勧客帰。     猶を自ら 朝朝 客に帰るを勧む

    読史絶句
楚漢龍争元自可。     楚漢の龍争は 元と自ら可なり
師昭孤媚竟如何。     師昭の孤媚 竟に如何
阮生広武原頭涙。     阮生 広武原頭の涙
応比廻車痛哭多。     応に 廻車の痛哭に比して多かるべし

・・・・・・この詩は・楚の項羽と漢の高祖とは天下を争い龍争虎闘したが、これには名分がある。然し、司馬師。司馬昭の二兄弟が魏に仕えて孤媚し、遂に司馬炎の時、魏の国を奪った方法は下の下だ。阮籍の窮途痛哭して車を廻した故事は有名であるが、その阮籍が楚漢龍争の古戦場の広武原頭に立つて ≪時ニ英雄ナク豎子ヲシテ名ヲ成サム≫と浩歎した涙は、窮途痛哭した涙よりも激烈であったろうと詠じたもの。

     観紅葉一絶句      紅葉を観る一絶句
漫山?谷漲紅霞。      山に漫ち 谷を?めて 紅霞 漲る
点綴残秋意太奢。      残秋を点綴して意 太だ奢なり
若問蓬莱好風景。      若し問莱の好風景を問はば
為言楓葉勝桜花。      為に言う 楓葉は桜花に勝ると

 参考資料:風雅叢書
 石 九鼎: 08/09/13