陸 游
陸遊(1125-1210)南宋時代ノ詩人。字は務観。放翁と号す。浙江省紹興の出身。出生時、金の南侵略時に当たり一家は難を逃れて滎陽(河南省滎陽県)から南へ最終的には郷里山陰に定住した。若年じ曾幾について詩を学ぶ。二十九才科挙に応じ、省試に一位で合格したが、宰相秦檜の孫、塤(けん)を一位合格させんが為、妨害。殿試では落第させられた。
、秦檜死亡、三十四才の時、始めて官界に入った。陸遊は生涯、金に対して、抗戦の立場を取り続けた。


     剣門道中遇微雨
衣上征塵雑酒痕。    衣上の征塵 酒痕を雑う
遠遊無処不消魂。    遠遊 処として 魂を消さざるは無し
此身合是詩人未。    此の身 合に是れ 詩人たれべきや未や
細雨騎驢入剣門。    細雨 驢に騎りて 剣門に入る
◇陸遊48才の時の作。

    沈園 二首 其の一
城上斜陽画角哀。    城上の斜陽 画角哀し
沈園非復旧池台。    沈園 復た旧き池台に非らず
傷心橋下春波緑。    傷心す 橋下 春波緑なるに
曾是驚鴻照影来。    曾つて是れ 驚鴻 影を照らし来たれり

◇陸遊75才の時の作。陸遊が最初の妻、唐琬と結婚したのが、20才ころである。二人は相思相愛の仲であった。然しこの結婚は不幸な結果に終わる。唐琬は、陸遊の母と姪の間柄であったが、姑(母)と嫁(唐琬)との折り合いが悪く、それが原因で唐琬は陸家を出されてしまう。封建礼教制度時代・重圧の本で、陸遊は母への孝行が優先した。
陸遊は離婚当初、母に隠して別に一軒を設け、彼女を住まわして通っていたが、事があからさまになり、遂に二人の仲は切れてしまう。のち、唐琬は趙士程なる人物(趙士程は宋の帝室とも血統の続る)と再婚する。陸遊も間もなく二度目の妻、王氏を迎える。
彼らには、次々と子供が生まれ、それぞれ一家としての営みは根付いていた。因みに妻、王氏は陸遊71才の時、彼に先立っている。

陸遊30才の時の作。彼は沈氏所有の園池庭で、図らずも前の妻、唐琬と再会する、めぐりあわせを迎えた。唐琬は夫の趙士程に語って酒餚を陸遊の元へ届けてきた。陸遊は悵然と新たに悲歎にくれる。『釵頭鳳』がその時の詞。


    釵頭鳳
紅酥手   黄縢酒。      紅酥の手   黄縢の酒
満城春色宮墻柳。        満城の春色 宮墻の柳
東風悪   歓情薄。      東風は悪しく 歓情は薄し
一懐愁緒             一懐の愁
幾年離索。            幾年か離索せし
錯錯錯。              錯 錯 錯

春如旧   人空痩       春は旧の如く 人は空しく痩せ
淚痕紅浥蛟綃透         淚痕 紅に浥うて 蛟綃透る
桃花落   閑池閣       桃花落ち  池閣 閑なり
山盟雖在             山盟は在りと雖も
錦書難託             錦書 託し難し
莫莫莫               莫 莫 莫

桜色の艶やかな腕から持たされた、黄縢の酒。山陰の町を掩う春の気配に、禹跡寺の土塀に添う柳の新芽の美しさ。しかし春風の憎らしいこと、そして恋人の情の薄さ。胸いっぱいの憂い、何年別れて暮らしたことか。思い返せば何もかも、誤っていた、誤っていた、。
春は昔のままであるが、人はただ痩せ細るばかり。涙のあとは紅の色に湿って、薄絹もしどどに染み渡る。桃の花は散り、池の淵の高殿は静寂に包まれた。かたい誓いは今も残っているが、もはや便りを通わす止しもない。されば昔の思い出に、沈むな、沈むな。


   唐琬もそれに応えて同題の『釵頭鳳』を詠んだ。
世情は薄く、人情は悪し。
雨は黄昏を送って、花は落ち易し。
暁風の干かせしも、涙痕は残れり。
心事を箋き示さんと欲し、獨り斜めの欗に語る。
難 難 難。
人は各々を成し、今は昨に非ず。
病魂は長えに秋千(ブランコ)の寂しきに似たり。
角声寒く、夜は蘭珊(更ける)たり・・・・・。

唐琬はその再会ののち、間もなく死亡した。陸遊にとって彼女との出来事は、一生断腸の思いとなり付きまとう。唐琬と再会して別れた四十年後、陸遊は偶々沈氏の園を再度訪れる。園主は已に変わっていたが、曾つて作った『釵頭鳳』の詞を彫りつけた石を見いだす。
林亭 旧に感じて首を回らす、
泉の路 誰に因ってか断腸を説かん。
壊壁の酔題 塵 漠漠、
断雲の幽夢、事 茫茫。
年来の妄念 消除し尽くし、
回向す禅龕一炷の香。

それから更に歳月は経つ。七年ののちの七十五歳。陸遊は今一度、沈園を訪れて七言絶句二首を作った
自からの罪の意識。自からの優柔不断。封建礼教への妥協。 (周密『斉東野語』)