清明上河図>13 
            清明上河図  13
            独断・清明上河図を旅する

(1073年)2月14日。成尋の母86歳。成尋からの報を受け取る。渡宋の様子を知る。

(1073年)3月4日。 成尋 祈雨の法。
3月1日に宮中から供奉官が宣旨を携えて訪れ 『正月二月雨無し、五穀絶すべし。雨を祈らしむ勤仕すべきや否や』 との内容。成尋は 『聖旨に随いて勤仕すべし』 と承諾する。

昨年の冬以来降雪の少なかったことは、成尋が五台山への往路も復路も、ともに雪や雨に煩わされることがなかった。新年になってもこの傾向は変らず、正月二月と雨が降らず、このままでは、五穀の収穫もおぼつかない為、祈雨の法を修してくれるか、どうか、との問い合わせであった。

成尋が渡宋したのは『偏に菩薩を求めて型跡巡礼を為さんと勝地を尋ね来る』ためであった。降雨の祈りなどは『須らく固辞すべき』だった。然し彼はこれまでの皇帝から受けた恩義の数々を思うにつけ、現在の日照りと言う困難に何か奉仕すべきと考え、引き受けた。と心情を語る。

3月4日降雨の祈りも3日目に入った、経を誦しつつ眼むった時、伎楽の羅陵王の装束をした人物と、伎楽の納蘇利の装束をした人物と共に天に駆け昇る夢を見た。これは赤龍と青龍が天に昇ったのだと悟り、切に祈った。午後になって 『俄かに以って天翳り、大雨下る。雷電 頻りに鳴る。


                


 雨足、弥(いよいよ)大なり。一時の間、大いに甚だ雨降る』 暫らくして雨は止んだ。皇帝づきの太保(宦官)から「雨は降ったが多くない、」と記した紙が届いた。成尋はまた熱心に祈った。

やがて風が止み、雨になって、夜どうし降り続いた。6日も雨。3日も降り續き降雨量2尺5寸にものぼり、これで充分なので、今度は止雨の祈りをするようにとの下命。昼から祈りを止雨に切り替える。人々は奇跡を目の当たりにしたと言うほかなく、その喜びは皇帝の感嘆でもあった。成尋の日記とも言うべき『参天台五臺山記』のなかでも、白眉な場面でもある。

成尋の慰労の旨、宮中に案内したいと申し出たものの成尋は6日間も鬚も剃っていないため、すっかり白くなっていると断る。行事官の大保と成尋はくつろぎ、二人の気楽な会話が残る。

『日本国も亦た、阿闍梨(あじゃり)の如く雨を祈りて感応を得る人ありや否や』と質問している。成尋は、「めずらしくない」と答えている。
成尋の祈祷によって3日間の降雨が続き、皇帝は成尋に三度の礼拝をし、善恵大師の号を授けた その後、日本の僧が大唐国で大師号を得たと言うことは曽てなかったことである。


                      
         



日本から連れて来た具僧を呼び出し、 『自分は勅命を無視出来ないので、帰国を断念するが汝は日本に帰るように』と論し、これまで収集してきた書籍と書状を託して帰したのだと言う。

成尋は帰国して大雲寺の佛法を再興するつもりでいたが、皇帝の引き止めによって断念し、代わりに具僧に佛書すべてを持たせて帰国させた。

成尋渡宋の時、成尋の母はすでに八十三歳。三年。四年と成尋の帰国を待ち望んだが、永遠の別れでもあった。成尋の母の日記(成尋阿闍梨母集)は現存する。

参考資料:成尋の入宋とその生涯。伊井春樹著


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