清明上河図>7>
             清明上河図  7
              独断・清明上河図を旅する


開封には、四つの運河が引き込まれていた。深く宮城に入り込むのが金水河。東北部をかすめるのが五丈河。又の名を広済河とも言う。南にあるのが蔡河。恵民河とも言う。そしてベン河。黄河から開封城内を通し泗州(安徽省泗県)で淮河に合流する大運河。物資を運ぶ最大の運河であった。当時、運河の整備。とりわけ大問題であったのがベン河の工事であった。
  
1・網代の屋根をしつらえた船で、カマドのついた台所も備えている女や子供の姿も見える、運 搬を生業としている水上生活者たち。朝餉の支度でもしているのか。朝の洗濯だろうか、小舟の上に洗濯ものを干しているのも見受けられる。
                       

                  



2・一艘の船が河を下って行く。急流のなか船を操る人々が描かれている。船は大きく重たそ うだ。輸送船団に小舟が纏わりつき子魚、野菜まで売る風景が陸遊の『入蜀記』に詳しく記載 されている。陸遊は南宋時代の大詩人、創作した詩も一万首と言う。その陸遊が1169年に四川省のキ州に赴任した時に仔細に日記をつけた。書き出しは故郷の紹興から1169年5月18日〜10月27日。全行程に約五か月を要した。此処で『入蜀記』から陸遊の日記の一部を供出してみる。


              


◇7月20日・江の中にイルカが数十頭出没する。黒いのや黄色いのもいる。すると突然、数尺も有るのが現れた。色は真っ赤で、首を振り立て流れに逆らう、水しぶきを2,3尺の高さまで上げことのほか恐ろしかった。過道口に宿泊。 

◇7月28日・不意に大魚が現れた。眞緑で腹の下が丹のように赤い色をしている。舵の傍を 三尺ばかりも高く躍り上がるので、人々はみな不吉な予感を抱いたが、果たして帆柱が折れ帆が破れて、修理不可能の状態になった。夜になり風が強くなり纜を十本餘り増やした

◇8月14日・木の筏に出会う。幅が十余丈、長さが五十余丈、その上に三・四十の家がある妻や子、鶏や犬、臼、碓などみな整い、小道が縦横に通じている。祠もあり、平素見かけない物もある。船頭は『これで未だ小さい方ですよ。大きいのは筏の上に土を置いて野菜畑を作り、酒舗を設ているのもあります。』と話した。今日は向かい風なので船を挽くことになった。

◇8月21日・楊羅伏に停泊。大きな塘には高い柳が植えられて、住民が多い。魚の値段は土 のように廉く、百銭も出せば20人が腹一杯食べられるほどである、みな大きな魚ばかりで、小魚を買って猫に食べさせようと思ったが、手にはいらなかった。

◇9月2日・湖北省安陸県の遠山が望見できた。
◇9月3日・帰子保に停泊。
◇9月4日・平旦になって、やっと舟を出す。船頭の言うところによると、これから先の陂や沢は深く進み難く、虎や狼が出没するので、夜の明けないうちから出かけると、挽き手が害に遇う事が多いと言。

先年、長江下りを経験した。詩人(陸遊)が経験したことは、想像もつか無い。


           Copyrightc 1999-2004;(Kanshikan)All rights reserved.
                   リンク自由です。禁/無断転載
                     http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/seimei7.htm
                  本サイトに記載の文章・画像の無断転載を禁じます。