先哲者の漢詩>1>副島滄海

副島滄海(文政11・9・9〜明治11・5・14)
佐賀の人。佐賀藩国学教授枝吉種彰の次男。名を種臣、通称龍種、二郎。号を一一学人。佐賀藩士副島利忠の養嗣子となり、その姓を継ぐ。幼少より父の薫陶を受けて国学を学ぶ。兄神陽の感化を受け、国事に志した。

1852年、二十五歳、京都に上る。ペリーの浦賀に来たり海内騒然、尊王攘夷の論興り、滄海も時難救済の先鋒となろうとし、大原重徳ら有志と交わる。又、ロシアと樺太の国境問題を議し、マリアルーズ号事件、征台事件などに腕を振るった。然し征韓論に敗れ、西郷隆盛、板垣退助と共に下野した。

9年清国を漫遊し極東の政局を観て、専制政治の非を悟り帰国、民選議院の設立を建白した。滄海は人と為り豪気 闊達、識見高邁、私心無く、経学に明るく詩文巧みで明治元勲中抜群の存在であったと言う。

駐日公使を勤めた、何如璋、張滋ム、黎庶昌などの信望も厚く、英国公使パークスを始め李鴻章などは滄海にだけは一目を置き、伊藤博文などは子供扱いしたと言う。滄海の詩は漢魏六朝を標榜し、蒼古雄勁な詩風は我が国の冠たるもの。又、自ら文章を作る時には必ず司馬遷の『史記』を三復して読み後筆を執ると伝える。
書も善くし先年、佐賀市に於いて滄海の墨跡展が開催された。正に圧巻。鬼神飛龍が如し。常設展で無いのが惜しまれる。
          著書:滄海遺稿。滄海全集六巻六冊。

         偶 吟
戦勝餘威震朔河。    戦勝の餘威 朔河に震う
秋高群雁乱行過。    秋高くして群雁 行を乱して過ぎる
天兵所向捲枯葉。    天兵の向かう所 枯葉を捲く
韃靼胡王奈汝何。    韃靼の胡王 汝を如何せん

        贈奥州佐藤平次郎
金華松島奥東頭。    金華 松島 奥の東頭
自古風雲向北愁。    古より風雲 北に向かって愁う
日本中央碑字在。    日本の中央 碑字在り
祇今靺鞨入何州。    祇今 靺鞨 何の州にか入る

         観岳飛書
我今獲見岳飛書。    我今 見るを獲たり 岳飛の書
雄筆昂昂慷慨餘。    雄筆 昂昂たり 雄筆の餘
有宋朝廷公死後。    宋の朝廷 公死するの後 有り
赤心報国一人無。    赤心 国に報ゆるは 一人も無し

        次韻弔項羽答曾根俊虎
鳴雁枯蘆天欲霜。    鳴雁 枯蘆 天霜ふらんと欲す
烏江暮色正茫茫。    烏江の暮色 正に茫茫
沛公孫子今予在。    沛公の孫子 今予在り
鼓棹中流弔項王。    棹を鼓し 中流に 項王を弔う

        上暇不得作
日日把経朝建章。    日日 経を把つて 建章に朝す
衣裳常惹御炉香。    衣裳 常に惹く 御炉の香
君王恩沢元深重。    君王 恩沢 元と深重
未敢放臣煙水郷。    未だ敢えて臣を煙水の郷に放たしめず

         哀孫點
来安孫點去東都。    来安の孫點 東都を去り
碧海投珠名月孤。    碧海 珠を投じて 名月孤なり
日本晁卿不帰久。    日本の晁卿 帰らざること久しく
白雲秋色満蒼梧。    白雲 秋色 蒼梧に満つ

        寄題春畝山人陽和洞
一従君駕紫鸞帰。    一たび君が紫鸞に駕して帰りてより
無復人題旧板扉。    復人の旧板扉に題する無し
青石壇頭春晝静。    青石 壇頭 春晝静かに
陽和洞口断霞飛。    陽和 洞口 断霞飛ぶ

        悼金玉均 二首
一慟東風春有餘。    一慟 東風 春 餘有り
落花飄絮遣愁予。    落花 飄絮 予を愁い遣む
尤憐伍子走呉急。    尤も憐れむ 伍子 呉に走ること急
頗惜陳蕃謀国疎。    頗る惜しむ陳蕃 国を謀ることの疎なるを

         臨安懐古
鳳凰山下小西湖。    鳳凰 山下 小西湖
宋事悠悠足可吁。    宋事 悠悠 吁く可きに足る
海内兵戈丁壮尽。    海内の 兵戈 丁壮尽き
天涯雨露二親孤。    天涯の 雨露 二親孤なり
乱臣賊子有時有。    乱臣 賊子 時有って有り
志士仁人無代無。    志士 仁人 代として無きは無し
主暗家亡何用惜。    主暗に家亡ぶ何ぞ惜しむを用いん
常哀正気易崎嶇。    常に哀しむ正気の 崎嶇たり易きを

         示正直
酔後烏烏壮士吟。    酔後 烏烏 壮士の吟
帳中子弟孰知音。    帳中 子弟 孰か知音
平生報国祇此物。    平生 報国 祇此の物
三尺芙蓉一片心。    三尺の芙蓉 一片の心


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