詩の六義と詩体
   詩の六義
古来より詩を研鑽するに是非とも熟読して置く必要なもながある。詩経・離騒・文選を挙げて言う。
朱文公は 「詩を作るには先ず李杜を看よ、そして李杜の詩を看るには士人の本経を治める様にせよ」と言っている。中国の学問は経学が主である。故に、苟も詩を・専門に研鑽する志あるものは、畢生の心力を六経に尽くすべきものとしている。

朱文公は即ち六経に尽くす丈けの努力を李杜の詩集の研究に向かってせよと後進に教えている。然し私達が如何に李杜の詩集を専心に勉強しても、単に李杜ばかりを覧ていては、その肝心な李杜の詩味が十分に咀嚼(十分に理解する)出来るものでは無い。やはり李杜を真に理解とするならば、勢い其の以前に遡り、李杜の淵源、根底をなした所のものを深く研究する必要がある。

李杜の詩学の根底を成した、その主なるものは、詩経・離騒・文選の三大宝典に殆ど具備している。有り触れた書物ではあるが、我々が是非とも渉蠟する必要が生じる。

詩経は孔子が翻定された周代の詩で、刪定以前の古詩は司馬遷の史記に拠れば、三千余篇の多数に上っていると言はれている。そして、孔子は上は殷に、下は魯に採って三百十有一篇に削減したのである。尤も其の中に逸話が六篇あるので三百五篇であるが、其の又五篇が商頌で、商頌は前代の遺製であるから省略されるわけで、今日の詩は即ち三百篇である。

そこで今日では通俗に「詩三百」と呼ばれる習慣となっている。要するに大体の数を示したに過ぎない。孔子も論語に屡々、詩三百と称し、墨子にも亦屡々詩三百と書いている。孔子以後の詩は三百篇であると心得るべきである。

では何故故にして此の詩が復活したと言うと、書の生命は竹帛にあった。詩は多数の人に諷誦された。それが詩の復旧を容易にした一つの理由である。

書は伏生の暗誦で僅か二十八篇を伝える事が出来たが、詩は毛享が六国の際に伝え、申培・轅固・韓嬰・毛萇等がこれを漢初に伝えた。是は皆、暗誦の力である。この様に暗誦に因って保存された書物であるから、四家の伝えた三百篇の文字章句に多少の異同の有るのはやむを得ない事と言はねばならない。

そこで詩編には、「魯詩」 「齊詩」 「韓詩」 「毛詩」の四種類がある。
魯詩は魯の申培の伝えたもの。齊詩は齊の轅固の伝えたもの。韓詩は燕の韓嬰の伝えたもの。毛詩は河間の毛享の伝へたもので、毛萇が是を継承したものである。然し魯詩は西晋に、齊詩は東漢に、韓詩は北宋に亡びてしまい、独り毛詩のみが宋元以後今日に至っても勢力を振るい、日本にも伝はり、多くの学者によって研究されている。

詩経は前述のように南頌五篇を除けば皆周代の詩であるから之を「周詩三百篇」と称えても一向に差し支え無い。土地の範囲から見ると黄河流域の諸侯の国に限定され、南の楚の地方には及んでいない。つまり北中国の産物で北方文学の代表的のものである。亦時代から見ると、文王・武王から春秋の頃に及んでいる。
要するに詩経は周の文化、周の風俗、周の人情の反映した詩集であると思えば間違いない。そして其の三百篇は自然に系統師承のある学問で、今日まで連綿と伝わっているのである。漢の平帝の時、今の毛詩が始めて学官に立つたが、その以前既に齊・魯・韓 三家の詩が西漢の世に於いて地盤を固め、其の勢力は旺盛を極めていたから、天下は滔々と皆之に趨った。然し毛詩の伝統が一度明白になってからは、毛詩の重んずべきを知り、古詩の意は之によって窺うべきものだと定まり、宋儒の新学を除く外は悉く之を遵奉する事になった。

毛詩の伝統は一番最初に孔子から子夏に伝たわった。子夏は孔子七十子の門弟の内で、最も詩に深い趣味を持つていた人で、論語にま屡々 孔子と詩に就いての話が載っている。此の卜子夏が(姓は卜、名は商)が夫子に得た詩学を門人である高行子と曾中に授けた。高行子は齊人で孟子及び詩序中に見える所の高子である。曾中は子うしの弟子の曾参の子である。そこで子夏詩学は岐れて二派となった。

高行子は之を薛蒼子に、薛蒼子は帛妙子に伝えた。曾中は魏人李克、魯人孟仲子 {子思の門人、孟子の従昆弟)根牟子とだんだんに伝えた。その根牟子が彼の戦国で有名な趙人 荀子に伝えた。(呉の陸機の説)かくて此の学問は孔子から一貫した師儒の跡の掩いがたいものがある。
それから、荀子は六国の末に魯人の大毛公名は享なる人物に伝へた。此の大毛公と後人から尊敬せられる享は、荀子と帛妙子に学んで子夏の詩を得る。此の両統の蘊奧を極め、総合して一となし詁訓伝を作った。其の文は簡古で意味が深長で、よく古人立言の意を通じて文辞の惑はす所と成らなかった。これが即ち現代実際に行われている毛詩の根源である。

詁訓伝の著作の年代は明白では無いが、筍卿の門人である以上、秦漢の際であることは想像に難くない。荀卿の門人である以上、秦漢の際であることは想像に難くない。享はこれを趙人の毛萇いに伝えた。此の毛萇は後世から小毛公と呼ばれる人で、大毛公の詁訓伝を受けて此を家業としたのである。それが漢代に賢明の聞き高い河間獻王の劉徳に見出され、此から始めて毛詩と称し、小毛公萇を博士とし、毛詩を国学に立てた。此に於いて毛詩始めて世に出で、他の三家と対峙、其の学説は遂に他の三家を圧倒するに至った。聖門授受の真伝が幸いに命脈を保ち澌減を免れたのは、偏に河間獻王の力である。後人は河間獻王に対して感謝の意を表せねばならない、と言うべきであろう。

我が国、徳川時代の学問は朱子学を崇拝し崇尊した、結果、大方の研究者、学者は朱子学で養成せられた、因って普通は朱伝に依って詩を読むことが普通とされてきた。周詩の真の深淵は到底朱伝の解説では。解することは出来ない。ただ此の系統の確かな毛伝に依って今日・古詩人の本義を知るより道が無いと言うべきであろう。そこで詩を修得するという事は、あくまでも毛詩に依って真髄を了得する事が大切である。李杜の如く大詩人が大筆力を揮って之を使いこなした意味合いも之に依って真に良悟出来る。

然し此の毛伝は先秦の古文を奉ずるが故に非常に簡古で学者でも解することの出来ない箇所が多い。