千 秋 詩 話  

詩は志を言う。歌は声をながくする。これは中国四千年前から言はれている。
 
『書・舜典』に詩言志 歌永言。舜の言葉により古今からの定義とされている。詩を教授するもの必ずこの言葉を引用している。「詩は志を言う」とは自分の心境・感想・を表現することであり、「歌は声を永くする」とは声を長く引いて調子を整えて歌うことである。

漢詩の形式・内容は時を移動して変化して行く。然し詩の本質的なものは微動だにしない。古今を通して同じである。重要な条件を三つ言うことができる。先人は言う。 

1・漢詩は自分自身の思想・行動を作品として根底をなす。
2・辞句と格調の好く整っていること。
3・創作者の環境と時代性が充分に表されていること。

『厳滄浪・詩辨』にも以下のように述べている。”詩は性情を吟詠するものである。盛唐詩人には惟 興趣にあり。羚羊角を掛け、跡の求めるべき無し。故にこの妙所・透徹・玲瓏・湊泊すべからず。空中の音。相中の色(相対に関係を持つ)。水中の月。鏡中の象。

言、尽きる有って意窮まり無し”と言っている。詩人は語感を修練する必要がある「青灯」と言えば読書人に用いる。「吟辺」と言えば詩人の常用語。但し吟辺は字書にはない。古人の詩を沢山読み自分で詩を作っていくうちに語感は練成していく。先哲者の語。                   

模範とすべき古人の詩  唐選詩。三体詩。唐人萬首絶句から学習、次に宋の陸游。金の元好問。明の高啓。清の王士禎。等名家集につき精読すべきであり、後世になればなるほど、詩中の用事、用典が多技にわたるので、精細に研究することは困難であり、一言双句を尽く明確に解決する必要はない。要はその体格・声調をわきまえる。                             

内容とする思想。興致をよく味得すること。「検韻」には字典がよい。新刊で入手できるものに” 新字源”角川書店。小川環樹・西田太一郎・赤塚忠・著が最もよい。” 韻書”には「詩韻含英異同辨」「詩韻精英」「韻府一隅」など。「詩韻含英異同辨」は復刻され簡単に入手できる。専門的になら「佩文韻府」。中国語書籍取り扱い書店で入手できる。                          

『詩に別才あり、学に関するに非ず』厳滄浪以来、言はれてきた。漢文は知らなくても出来る。春ヲ待タ不ズ。不待春。と言う文句でどんな時に返らなければならないか。                

昔から。ヲ。ニ。ト。ヨリ。ラル。で返れと言はれている。ヲ、ニ、がついても修飾的に置く時は返らない。静ニ読ム。であり 読ム静ニ。ではない。それ以外に少数の有無、難易、多少、とか助動詞の「不・使・可・宜・当・須・非・莫・未・被」などが返る。

秦の穆公が伯楽に向って言った。お前ももう歳をとった。誰かお前の一族に馬を見る名人はおらんか?彼は答えた。ただ良いと言うだけの馬ならば、形容筋骨で観ることもできますが、天下の馬とも言うべき名馬になりますと、そんなものでは解りません。然るに一たび走れば空を行くようなものです。

臣の子等は皆下材ですから、ただの良馬を観るぐらいは教えてやれます。然し天下の馬を観るには堪えません。臣の貧乏朋友に九方皐(列子・淮南子)と言う者がをります。此の者ならば、馬を観ることにかけては私に劣るものではありません。どうか彼をお召しください。そこで穆公は彼を召出して、馬を捜しに行かせた。                                          

三ケ月ほどして彼は沙丘と言う処に望みの馬が居ると復命した。どういう馬か?との公の問に、牡の黄毛だと言う答えだったが、後、引き取りに行った使者の問い合わせに、彼の指定して置いた馬は牡の驪だと言うて来た。穆公は頗る不機嫌で、早速伯楽を呼び出し、何の事だ、彼奴は馬の牝牡も毛色も解らん!。そんなことでどうして馬を観ることが出来るか! と詰責した。         

ところが白楽は之を聞き大いに感心の体で、彼はそこまで至ってをりますかそれでは臣など到底及びもつかぬものであります。彼は馬なんぞ観てをるのではありません。馬よりもっと貴いものを観ているのです。取り寄せて御覧なさい。それはきっと千里の名馬でありましょう。と言った。果たしてその通りであったと言う。                                             

詩においても亦同じ事であり、詩の第一の要件は「いかに統一生動しているか」を示す。


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