千秋詩話 10
     杜牧(830−853)

字は牧之。若年の頃は美貌の風流才子として浮名を流したが 性剛直で奇節あり『孫子』の研究者としても知られている。晩唐詩壇の繊細優婉な一般的傾向とは別格の男性的気概の作風は豪邁と艶麗の両面を兼ねそなえ 詠史・時事諷詠に長じ特に懐旧の情をもった絶句に名作が多い。

    遣 懐
落魂江湖載酒行。  
水郷の辺り 落ちぶれ行くにも酒を載せて旅をし
楚腰腸断掌中軽。  
かぼそい腰の女は手の上で舞い得るような繊細な美人と戯れた
十年一覚揚州夢。  
しかし揚州の歓楽街での十年の夢が今覚めてみると
贏得青楼薄倖名。  
ただ歓楽街で冷たい不幸な名を受けたにすぎなかった

杜牧が 揚州大都督の牛僧孺(779−847)の幕下に入り書記として官吏生活を送ったのは太和七年(833) 三十一歳の時から数年間であったが名門の出でもある好青年杜牧はこの游楽の江都で風流のかぎりをつくした 杜牧の身を案じた牛僧孺が士卒に命じて変装をし密かに護衛させ 数年後 杜牧が中央に還る時 牛僧孺が士卒に命じ「あれを持って参れ」と命じた。

「ご自分でそれを開けてごらんなさい」 杜牧は文函を開けた。そこには報告書の束が収められていた。士卒の市内巡察小吏の報告である。

⇒杜書記は張家から江都楼 彩虹閣を回り 再び張家え。帰宅。恙無し。
⇒杜書記は張家から流波館へ。宴会。遊侠の徒 宴席に闖入する者あり。取り押さえる。張家に 戻り 帰宅。恙無し。
⇒杜書記 張家。九峰園。天瑞館。張家。路地に入り二刻を経過して春屏原に出る。家まで同道。

杜牧は毎晩 妓楼のハシゴをしていた。先ず張好好(蘇州出身。彼女は揚州でも屈指の名妓として知られていた。)の処に行き それから妓楼を回る。最後にまた張好好の処に戻り 泊まったり 家に帰ったりした。唐の揚州城は 隋の煬帝が造営した江都で 迷楼と呼ばれる豪壮な建造物だった。

杜牧は読んでいるうちに赤面慚愧に堪えない表情。牛僧孺は続けて言う。

「全部読んでも仕方がない。大抵同じような報告だ。士卒の長に数えて貰ったら千枚を超える」
「毎晩 三十人前後の街卒が 私服であなたをそれとなく警護していた」  
「あなたは千歳希有の才能の持ち主だから。 国家の為に そなたに万一のことがあってはならない」杜牧は言葉も無く 「そんな・・・・」その場に額ずいた。 
(出典) 『揚州夢記』唐の于業。

  山 行
遠上寒山石径斜。   
秋の寂しい山 石混じりの小道が斜に通じている
白雲生処有人家。   
はるか白雲の漂うあたりに人家が見える
停車坐愛楓林晩。   
車を停めて何となく楓の紅葉した日暮れの風景に見とれていると
霜葉紅於二月花。   
霜にで紅葉したその色は 夕日に映えて春の花よりも勝っている 

『唐才子伝』『新唐書』に(弟の病を以て官を棄つ)としるし。杜牧は弟を揚州禅智寺で療養させた。ある年 見舞ったついでに友人を尋ねた。その時 彼は長年求めていた絶世の美女にめぐりあった。

年を聞くと十余歳と言う。(この少女が成長すれば まさに天下一の美女だ。・・・・)杜牧は少女の母にかけあった。結納の金を渡し「十年経てば私は湖州刺史として此へ赴任して来る。それまで待つてて下さい。十年です。」と言った。
  「でも 十年をすぎたなら・・・・」 少女の母親は心配だった。二十をすぎると 婚期を逸したと言う時代であった。
「十年すぎれば 仕方がない。・・・・・・きっと十年以内にやって来ます。」  
杜牧は約束した。

杜牧は失明した弟の一家を引き受けた。地方長官を勤務しなければ生活費が捻出 出来ない。中央諸官を歴任すれば出世の近道である。杜牧自身は昇進のことは考えないことにした。

弟一家を引き連れて 杜牧の地方官勤務が始った。湖州刺史就任が実現したのは 大中四年(850) 彼が四十八歳の時である。あの絶世の美少女を発見したときから すでに十四年たっていた。喜び勇んで湖州に来た。

「十年のお約束でございました。もう一年待つて 十一年目に結婚いたしました。娘を是非にと熱心に望んでおられた人がいましたので。・・・三年前のこと。・・・・それから、  一年に一人ずつ子を生んで、いま三児の母となっています」

少女の母は弁明した。例の美少女はすでに人妻になっていた。「そうか。幸せだというから めでたいことだ。・・・・・残念ではあるが、目出度くもある。」杜牧はこみあげてくるため息だけでなく 涙までにじみ出てきそうになった。

「一首できた。・・・・・筆と紙を戴きたいが・・・・・・・。」

自是尋春去校遅。   
自から是れ 春を尋ね 去ってしらぶる(校)こと遅し
不須惆悵怨芳時。   
須(もち)いず 惆悵 芳時を怨むを
狂風落尽深紅色。   
狂風 落ち尽くす 深紅色
緑葉成陰子満枝。   
緑葉 陰を成して 子枝に満つ

☆ 「山行」の結句。 霜によって紅葉した色彩。鮮やかさが 春の花より紅いと言うのは人妻となったその女性が人生の青春である若い娘たち(ブランド物に身を飾るギャル)よりなお美くしい。と言う説がある。先ずこじつけの説と考えられている。然し・・寓意とも感じられないこともないが・・・・・

一般に中国人は春の花を詠じることが多いが秋の紅葉を詠じることは少ない。紅葉を華やかさなものとして詠じる例は我が国 特有のものらしい。

☆現代作家・茅盾(子夜など、実在論者)に『霜葉紅似二月花』と言う長編小説がある。(1943年刊)。「紅於二月花」を「紅似二月花」と変えて題名したもの。茅盾はその理由を 一見ほんものの二月の花のように 行動している一群の人人が 実際は紅葉した葉であって間もなく散り落ちて行く運命にある。その次第を描きたかった からだと言う。つまり 紅葉はほんものの赤い花よりも赤く見えることもあるが所詮は似て非なるものである と言う意味で 「霜葉紅似二月花」 と題したと言う。

☆ 杜牧の詩には数字を用いることが多い。
「漢宮一百四十五」。 「二十四橋名月夜」。 「南朝四百八十寺」。王漁洋は『算博士といえども何ぞ妨げん。 只 呆相なからんのみ』 と言う。

☆杜牧の作品の態度について彼自身が 「某苦心為詩 本求高絶 不務奇麗 不渉習俗 不今不古處於中間」 (巻十六献詩啓)と語る。

廃頽してゆく世を挽回するには 先ず善政が不可欠。杜牧は太宗を偲んで「将赴呉興登楽游原一絶」を作り玄宗の晩年を諷刺しては「清華宮三十韻」を作詩。天子の精励を熱望し 一方では杜牧は弱き物。虐げられた者に対して 満腔の同情を禁じ得なかった。杜牧が31歳の時、杜秋という女性のために、その劇的な女の一生を描く、五言百十二句の長篇の詩を作った。友人の張祐は歌った。

      年少 多情の 杜牧之。
      風流 仍ほ作る 杜秋の詩。 (張祐・読池州杜員外杜秋娘詩)
遊びの心が横溢し、奔放である者、まさに「風流」の典型であった。邨行・題邨舎は農民の困難苦悩を。杜秋娘詩・張好好詩は女の憐れさを。 李甘詩・李給事二首は剛直さ故の不遇であった李甘・李敏中に対する友情を詠じている。杜牧が目指した詩人が杜甫。韓愈、であった。「読韓杜集」で理解出来る。

      9・19・00


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