千秋詩話 13

   諸葛亮

日本では諸葛孔明で有名。(181〜234)山東省の人。『三国志』諸葛亮伝。
兄の瑾は7歳の年長である。九歳で母を無くし、十二歳で父を失う。兄の瑾は継母を伴ない呉に赴き、孫権に就きのち官職を辞す。孔明は弟の均と共に、諸葛玄を頼り荊州に移住した。

十六歳の時、叔父が殺されてからは、襄陽北西の隆中で晴耕雨読の日を送りながら、襄陽士人、後漢では一流の名門である崔州平、徐庶、遊学仲間の石韜、孟建、らと交わる。

荊州の社交界では、友人の(ほう士元)と並んで「孔明は臥龍。士元は鳳雛」の評判を得た。孔明の草蘆から75`離れた新野には、劉備が住んでいた。徐庶の薦めにより、劉備が「三顧の礼」をもってその出馬を請うたために、ついに出て補佐し、軍師となり、丞相に進み智謀忠誠、国家の柱石であった。天下三分して、蜀主の崩じた後、遺命により後主を輔け、建興五年(227)北征して魏と戦い、十二年陣中で没した。孔明が好んで歌ったとされる

「梁 父 吟」 蜀漢  諸葛亮。  
斉の梁父山に近い地方のことを歌った詩。
   歩 出 斉 城 門。  歩して斉の城門を出で
   遥 望 蕩 陰 里。  遥に望む 蕩陰の里
   里 中 有 三 墳。  里中に三墳有り
   塁 塁 正 相 似。  塁塁として正に相い似たり
   問 是 誰 家 墓。  問う是れ誰が家の墓ぞ
   田 疆 古 冶 氏。  田疆古冶氏
   力 能 排 南 山。  力能く南山を排し
   文 能 絶 地 紀。  文能く地紀を絶つ
   一 朝 被 讒 言。  一朝讒言を被り
   二 桃 殺 三 士。  二桃三士を殺す
   誰 能 為 此 謀。  誰か能く此の謀を為せる
   国 相 斉 晏 子。  国相斉の晏子なり

春秋の斉の名相晏平仲が景公に請うて、公孫接、田開疆、古冶子の三士に二個の桃を与えた。晏子は三士に 「三士は何に功があって、その桃を食うのか」と詰る。

公孫接は「大豕や虎などをも一打ちに捕える力がある為だ」と答える。
田開疆は「伏兵を設けて再び敵を奔らせた功がある」と言う。
古冶子は「われは君に従い黄河を渡った時、大亀が添え馬を銜えて河に入ったので、亀を殺し、馬の尾を握って水中から出た。

その亀は河伯と言う黄河の神であった」とと答える。二士は古冶士に及ばないのに桃を食うのは貪ることだと考え、貪欲の不名誉を受けて死なないのは、勇気が無いことになる、というので自殺してしまった。

古冶子は二士が死んだのに自分が生きているのは不仁である。人を恥ずかしめて名声を得るのは、不義である。こんな遺憾な行いをして死なないのは勇気が無いことになると自刎した。

景公のもてあました三士は、讒言に基いたもので、晏子が智慧を出して、
三人とも容易に亡き者となった。智慧の力が、勇者の力よりも、如何に強かったか。ここに孔明の睨む所がある。

★晏子は勝れた人物ではあったが心の狭い人であった。即ち自分に対して、三士が礼を失したのを含んで、二桃を与え、それぞれ功を述べさせ互いに恥じて自殺させる策略を謀ったことは、その狭量を物語るものである。それに引き換えて三士の心は誠に壮烈であった。(二桃三士を殺す)
「晏子春秋」から出典して詩を作る。梁父吟を好んで歌った諸葛孔明は兵法家でもあった。

 この作を点検すると、第一句の「歩出齋城門」と第二句の「遥望蕩陰里」が対句になっている、第七句の「力能排南田」と第八句の「文能絶地紀」が対句。第九句の「一朝被讒言」と第十句 「二桃殺三士」が対を成している。如何に魏の奸雄、曹操が絶大な兵力を擁していようとも、孔明渾身の正しい智慧には、一たまりもないと言う大きな抱負を、此にぶち明けたもの。

226年に、魏では文帝が死に、その子、明帝が立った。この機をとらえ孔明は、北伐を決意し、翌年『出師の表』を後主にたてまつって出陣する。この「先帝の創業いまだ半ばならずして、中道に崩そす。今や天下三分、益州疲弊し、これ誠に危急存亡のときなり」ではじまる「出師の表」は忠誠の至情に出たもので、千古の名文と言はれ、「これを読んで泣かざる者は忠臣に非ず」とまで言はれた。

梁父は梁甫とも言う。泰山の麓にある山。「梁父吟」は斉の梁父山に近い地方の山川、人物を詠んだ詩とされ、今残るものはこの一首のみで、他は亡失したとされている。
       9・28・00   
  


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