千秋詩話  15
          謝霊運

謝霊運(384〜433)河南省陳郡陽嘉の人。晋の将軍謝玄の孫。文才があり顔延年と名を並べた。従叔父謝混の封、康楽公二千石を継いだので、謝康楽と称された。詩文は陶淵明と並んで「陶謝」と言い、顔延之と併せ並び称して  「顔謝」と称される。

石壁精舎還湖中作。    石壁精舎より湖中に還りて作る。

昏 旦 変 気 候。   昏旦に気候変じ
山 水 含 清 暉。   山水 清暉を
清 暉 能 娯 人。   清暉 能く人を娯しませ
游 子 憺 忘 帰。   游子 憺として帰るを忘れる
出 谷 日 尚 蚤。   谷を出でて日尚はやく
入 舟 陽 已 微。   舟に入りて陽已に微なり
林 嶽 斂 瞑 色。   林嶽 瞑色を斂め
雲 霞 収 夕 霏。   雲霞 夕霏を収む
菱 蓮 迭 映 蔚。   菱蓮 たびに映蔚し
蒲 稗 相 因 依。   蒲稗 相い因 依す
被 払 趨 南 径。   被払して南径に趨き
愉 悦 偃 東 扉。   愉悦して東扉に偃す
慮 澹 物 自 軽。   慮澹にして物自ら軽く
意 適 理 無 違。   意適いて理違う無し
寄 言 摂 生 客。   言を寄す摂生の客
試 用 此 道 推。   試みに此処の道を用って推せ

山水の美を描き尽くした詩。謝霊運の詩の中で最も秀れたものの一つとされている詩。朝夕に変わる湖山の微妙な景色に心安んじて還るを忘れ、この中に陶淵明の所謂『真』の理があることを言外に暗示し、「慮澹にして物自ら軽く、意適いて理違う無し」道をもって養生の要諦とする。と言う結句に至る前提として、渾然とした纏まりをみせる、

感覚の鋭い観察、巧妙な表現により、夕景の変化を刻刻と感じさせる。天才の霊妙な手法である 然し謝霊運の官吏としての生涯が不遇なのも、彼の放縦な性格と自ら引き起こした人間関係のトラブルに関係がある。名門の坊ちゃん、我が儘で自負心が強く、才能を恃み勝手気ままな振る舞いは、世間の顰蹙を買う結果にもなった。

謝霊運は好んで『曲柄笠』(柄の曲がつた車蓋。車に立てる傘⇒貴人の儀仗として用いた)を用いた。孔隠士(孔淳之)が彼に言った。

「きみは心は高遠な境地を慕いながら、どうして、貴人を真似て、柄のついた笠と言う外形にとらわれるのだ」謝霊運は答えた。
「まあ《影を畏れる者はまだ無心になっていない》と言うことではなかろうか」 【世説新語。言語】

謝霊運は父の喪中に詩を作った。為に、罪に問われ一生出世できなかった。それは、父母の死を文学作品として表現する。それだけの、ゆとりを持つことが許されなかった。親の死は人生にとって最大の悲しみとされ、中国の詩人で、妻や子供の死を悼む詩はみられるが、親の死を悼む詩はほとんど無い。稀にはあるが、例外的である。孝という徳には親の生前中に孝養をつくす。祖先の霊をまつるという義務を持つ。

後、謝霊運は文帝の秘書監となり『晋書』の編纂に従事したが、再び会稽に帰り山水の中に豪遊し、太守と衝突して騒擾罪に問われた。幸い文帝の特赦により臨川内史に任ぜられるが、彼は依然として傲慢な態度を改めなかった。遂に広州へ流罪となる。護送の途中、逃亡の計画が暴露され広州で死罪に処せられた。四十八歳であった

                                              2000/10/03

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