千秋詩話  17

    高 啓
高啓(1336-1374)字は季迪。長洲(江蘇省)の人。号を高青邱と言う。青邱の祖先は渤海に起ったと言はれていから北方人の血を受けていたことになる。高啓は次男であった。兄は咨と言い准右に軍務に服していたので高啓が兄に代わって家政をみていた。

裕福であった高家もこのころから家産も傾き始め高啓18歳頃には零落してしまった。青邱が18歳の時、周仲達の娘(初恋の女性)を娶ったが結婚六礼の式を挙げる費用すら調達できないほど困窮していた。妻の父の援助を得て式を挙げた。

青邱は幼時より英才明敏の天才児でありながら日夜刻苦勉励し一日に詩五首を課し一日も怠ることがなかったと言う。年僅十六歳で北郭十才子の一人と称され呉中に広く傳わった。風貌は痩せていて長身。大人びた態度で当時一流の老詩人の中にいても一段の光彩を放っていたと傳える

 弱冠時代の交友を追憶して作った詩。

春日十友を懐う  (僧道衍)
楞 伽 曽 往 問。    楞伽 かって往いて問う
縁 澗 冒 嵐 深。    澗に縁って嵐の深きを冒す
残 雪 寒 山 暮。    残雪 寒山の暮れ
幽 扉 閉 竹 林。    幽扉 竹林を閉ざす
欲 寄 棲 禅 跡。    棲禅の跡を寄せんと欲するも 
尚 違 捐 俗 心。    尚を捐俗の心に違う
別 後 空 遥 念。    別後 空しく遥に念う
迢 迢 双 樹 陰。    迢迢たる双樹の陰

高啓が二十一歳の時、明の太祖は軍を率いて金陵(南京)を攻略して都を此に移し応天府と称した。時に臨安に張士誠を使わし攻めさせて、これを占領した。張士誠は鏡介という者を淮南行政参政に任じた。鏡介は高啓が非凡の才人であることを知り、詩を以て張士誠の上客として待遇し再三官仕を勧めたが青邱は応じなかった。

権威に屈せず乱を避けて呉淞江上の青邱に隠れ、妻の実家に寄寓し身の安全を計った。そして自ら青邱子と号した。時に年二十三歳であった。胸中満腔の熱血を抱き貧に堪え権勢に反抗し官途に膝を屈することをしなかった。この意気をして明一世の詩界に於いて鬼才たらしめた原因であった。

      逢呉秀才復送帰江上。
江上停舟問客縦。   江上 舟をとどめ客縦を問う
乱前相別乱余逢。   乱前 相別れ乱余に逢う
暫時握手還分手。   暫時 手を握り還た手を分つ
暮雨南陵水寺鐘。   暮雨の南陵 水寺の鐘

高啓の七言詩の中では圧巻の名作と言われ広く知られている。張士誠が自から王と称して明王に謀反したので呉越一帯は戦乱の巷と化した。青邱は乱を避けながら呉越を流浪すること三年。一時家郷に帰り青邱より居を遷して江浜に寓居。至正二十六年に乱は治まり世の中が平和となったので再び故郷の江東青邱に還った。

青邱は十八になっていた時まだ結婚していなかった。妻の父(周建仲)が「蘆雁の図」を取り出して、それに配する詩を書くように命じた。青邱は絶句一詩を書いた。

西風吹折荻花枝     西風 吹折す荻花の枝
好鳥飛来羽翩垂     好鳥 飛来し羽翩 垂らす
沙闊水寒魚不見    沙闊く水は寒し 魚 見えず
満身風露立多時
    満身 風露 立つこと多時

岳父は「妻がほしいと言うことだな」と言って、吉日を選んで娘をめあわせた。「蓬軒雑記」

戦乱を避けての前後十年の間、青邱は詩を作り七百三十二篇の詩。「缶鳴集」として出版これが青邱の始めての詩集であった。翌年、明の洪武元年、明太祖即位し、乱離二十年、兵災に苦しんだ人民は極度に疲弊し、人心は乱れ、道義は廃頽し末世の世態となった。

そこで明の太祖は大いに文教を興さんとし、開国の例にならって前朝の元史を修めることした。洪武二年青邱は文学の士として召されて金陵に赴いた。元史修纂の大業に参与する。曽て孤高を持して仕官に応じなかった彼が何故に進んで元史の編纂に参加とは。

祖先は北方の人であり、祖先は元の重臣で皇帝と共に渡南した家系であった、元の歴史については一家見を有していた。元史修史の大業を支配する責任者は宋濂であった。青邱は直ちに文案を草して奉典殿に上奏した、帝は嘉として白金文綺の下賜があった。

明の太祖は性極めて猜疑心の強い人で、曽ての功臣は相次いで刑され、終りを全うする者が無いありさまであったので、青邱は保身の必要から退隠を欲していた。帝やむなく白銀を賜り帰郷を許すに至った。この時から帝は青邱を怨むようになったと言われる。

     宮 女 図
女 奴 扶 酔 踏 蒼 苔。    女奴 酔を扶けて蒼苔を踏む
名 月 西 園 侍 宴 廻。    明月 西園 宴に侍してめぐる
小 犬 隔 花 空 吠 影。    小犬 花を隔てて空しく影に吠え
夜 深 宮 禁 有 誰 来。    夜は深く宮禁に誰か来たるあり

       画 犬
獨 児 初 長 尾 茸 茸。    獨児 初めて長じて尾茸茸
行 響 金 鈴 細 草 中。    行く行く金鈴を響かす細草のうち
莫 向 瑤 階 吠 人 影。    瑤階に向って人影に吠える莫れ
羊 車 半 夜 出 深 宮。    羊車 半夜深宮を出ず

宮女図と画犬の二つの詩は詩の内容が類似して宮中のことを比喩した詩である。明の太祖は色を好み乱行が多かった。宮中の麗人9000人その御白紛代が金40萬金であったと傳える。これを青邱は諷刺したものであろうと言う。宮中官女の生活を叙述したにすぎない小詩であるが、ただ下二句は太祖を諷したものであると、奸人が皇帝に内奏して誹った。

洪武五年十月に礼部主事{魏觀}と言う人が蘇州府の知事となって来た。
曽て青邱が元史編纂の時、南京で親しく交わった親友の一人であった。新知事の最も大きな任務は旧城の再建であった。青邱は蘇州の考古に明るい。専ら魏觀の力になった。

猜疑心の強い太祖は間者を密かに蘇州に派して魏觀と青邱の行動を内偵させる。この使者は帝に讒言をしたので、皇帝は知事魏觀を召還させる。

或る夜、青邱は夢に亡父に会った。亡父は青邱の掌に「魏」の一字を書いてこの者と今後相見ることならん、と告げた。そこで青邱は身の危険を感じて蘇州城内を脱出して行方をくらましてしまつた。暫らく江辺に隠れていたが罪を許して仕官させる。との虚傳にかかって先父の誡めを破り蘇州城に帰ったところを捕縛されてしまった。

青邱は蘇州城外寒山寺の傍にある楓橋から舟に乗って北向する時、既に死っを覚悟して吟じた一詩は広く世間に流布したと言う。

楓橋北望草斑斑。    楓橋 北望すれば草斑斑たり
十去行人九不還。    十去の行人 九還らず
自知清徹原無愧。    自ら知る清徹 もとより愧る無し
蓋倩長江鑑此心。    むしろ長江を倩うて この心を鑑みるべし
 
翌年ついに腰斬の刑を受けた。三十九歳。高青邱の詩二千首、磊落豪宕な詩風はその性格によるものであり、南国的な婉美な詩情と慷慨に満ちている。明治時代の漢詩人に最も愛読されたのが高青邱の詩集と傳える。


                          10/24/2001


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