千秋詩話  19

 曹丕と曹植 (七歩の才)

文帝・曹丕は曹操の次男、兄曹昂が早く没したので曹操の死後、その後を継いで魏王となる。漢の献帝の禅定で帝位についた。文学にも優れ、帝が作った詩及び文学評論は世に名高い。東阿王・曹植を言う、曹操の三男、文帝の弟。四十一歳で病没した、思と諡されたので世に陳思王と称される。曹植は文才富艶で、当時の文学界の第一人者とされている。

魏の文帝・曹丕(187〜226)が、ある時、弟の東阿王・曹植(192〜232)に向かって「文帝嘗令東阿王七歩中作詩、不成行大法。」

「七歩あるく、あいだに詩を作れと命じ、もし出来なければ国法に照らして死罪に処すであろう」「応声便為詩曰」 東阿王・曹植はその声に従ってすぐさま詩を作った。世説新語・文学篇。

「煮豆持作羹、漉菽取作汁。豆殻在釜下然、豆在釜中泣。本自同根生、相煮何太急。」帝深有慚色。

豆を煮てそれで熱いスープを作り、味噌を精製してそれを取ってスープの中に入れる。豆がらは釜の下で燃え、豆は釜の中で熱さに耐えず泣いて言う。「豆も豆がらも、もともと同じ根から生まれ出た兄弟であるのに、豆がらは豆を煮ることが、こんなにひどいとは、余りにも無情ではないか」と。帝は深く恥じた様子であった。

唐・徐堅『初学記』巻十・王第五・七歩の条 魏文帝令東阿王七詩成詩不成将行大法遂作詩 曰く「豆を煮るに豆がらを燃やす・豆は釜の中に在りて泣く・本是れ同じく生まれしに・相煮ること何ぞ太だ急なる」 文帝大有慚色。

七歩の詩は兄にしいたげられた弟が兄の非行を訴えた詩として世に有名である

魏の武帝(曹操・155〜220)と卞皇后とのあいだには三人の男の子があった。長男が曹丕、次男が曹彰・三男が曹植。曹彰は武勇に勝れ、曹植は詩文に優れていた。武帝・曹操は武将でもあると同時に文藝を好み、自らも優れた詩文を作っていた。卓越した文才を持つ曹植を特に愛し、長男の曹丕にかえて曹植を太子に立てたいと思うこともあった。

それを頼みとして曹植の側近が曹丕との間に王位継承の争いを起こしたのである。争いは曹丕の側の勝利となった。建安二十五年曹丕は即位したが、曹植に対する嫉妬と猜疑の念はとけず、曹植を圧迫しつずけた。曹植がいかに異心のないことを示しても曹丕は遂に信じなかった。曹植は都を追われ、勢力を削がれ、地方の封地を転々と移された。

世説新語・尤悔篇⇒ 魏の文帝(曹丕)は弟の曹彰が剛勇であることをおそれ憎んでいた。ある時、曹彰は母の卞太后の部屋で兄文帝と碁に興じていた。曹彰が碁を打ちながら棗を食べることを知っていた曹丕は、その時、曹彰の食べる棗にひそかに毒を塗っておいたのである。

棗を食べた曹彰は忽ち苦しみだした。卞太后は慌てて水を持って来るように命じたが、釣べが壊されていると言う。曹丕が予め従者に命じて壊させたのであった。太后は、はだしで井戸端へ走って行ったが、水を汲み上げるすべが無い。曹彰はそのまま死んでしまった。 その後、卞太后は、文帝・曹丕が東阿王・曹植をも殺そうとしていることを知り、文帝に向かって言った。

「そなたは已に、私の曹彰を殺してしまった。その上また、私の曹植まで殺そうとしている。もうそんなことをしてはなりません」  曹植は地方の封地を転々と移されながら、曹丕のつけた監視役に厳しく行動を規制されながら、わびしい後半生を送った。齢四十一の生涯であった。