千秋詩話  20
       黄仲則
黄景仁(1749-1783)字を仲則・号を鹿菲子。乾隆14年常州府の武進県に生まれた。先祖は宋代の大詩人黄山谷、彼の祖父も父も武進県の教育者であるが、進士の試験資格は取れなかった。黄景仁は4歳で父を亡くし、祖父母に育てられた。学才はあったが、苦しい受験生活に一生を費やし、郷試に合格せず、会試を受けて進士となることなく終った。

彼が十八歳の時、県試を受けに行った宿屋で同郷の「洪北江」に出会ったことが詩人として彼を運命づけた。その宿屋で洪北江が母から貰った漢魏楽府を持っていて、楽府体の詩を真似て作って見せた。黄仲則はそれを見て僕にも教えてくれと一諸に作りあって一ケ月余りで洪北江よりも上手になった。詩にとりつかれた黄仲則は楽府体の古詩から近体の絶句律詩へと創作意欲を駆り立てられた

(1766年)冬、十八歳の時、揚州に遊学時に作った

 ”少年行”
男児作健向沙場   男児 健と作し 沙場に向かう
自愛登台不望郷   自ら登台を愛し 郷を望まず
太白高高天尺五   太白 高高 天尺五
宝刀明月共輝光   宝刀 明月 共に輝光す

洪北江は「黄仲則は背が高く、すんなりして、読書撃剣を好み、古の侠士の風格があり、名山大川を歴訪して、古跡に詠懐し風月に留連し、名士を訪ね詩をたたかわすのが好きだった」と書いている。安徽省城で三月三日の節供に采石磯の太白楼で一大詩會が催された。

最年少の彼が白い袷を着て庭に出て、たちどころに数百首の詩を作って諸客に見せたら、諸客はみな筆をすててたじろいだ。太白楼下には数百人が見物に来ていたが、彼の詩を写すために紙屋に走ったので紙の値段が騰貴したと言う。この詩は当時の大書家梁山舟が筆の詩碑が出来た。

清朝の乾隆時代の詩人「洪稚存」(1746-1089)の北江詩話に「詩には必ず珠光と剣気とが有り始めてその永遠性があるのを信じる。呉蘭雪の詩は珠光が七分、剣気が三分ある。黄仲則も又そうだ。私の詩は剣気が七分で珠光が三分だ。張船山も私と同じだ」と言っている。

剣気と言うのは気魄の強い詩。万里の長城あたりがもつ男性的な気を感じさせる詩とするなら珠光は浪漫的は詩情をたたえたもので、女性的なもの唯美的なものをねらった詩のことである。

他郷に衣食を求めて生活する作者が帰省し、九月九日の重陽の節供に老母に侍した作。四歳で父を失った仲則には武進の家に老母と妻子がいる。残しては旅に出て保護者のもとで秘書や教師をしながら、国家試験の勉強もせねばならない。老母に別れる詩。

      別老母   (乾隆三十六年)
搴幃拝母河梁去    幃をあげ 母を拝して 河梁に去らんととき
白髪愁看涙眼枯    白髪 愁い看て 涙眼 枯れたり
惨惨柴門風雪夜    惨惨たり柴門 風雪の夜
此時有子不如無    この時 子あるは無きにだも如かず

二十六歳の時、洪北江と常熟に旅した時、暮れ方虞山に登り、恩師邵先生の墓を弔うたとき洪北江に「私は長生き出来ないから遺稿を君に頼む」と言ってきかない、北江がそんな事は無いから心配するなと言うと、墓前で香を焚いて、約束するまで帰らないと言い張って約束させている。

二十九歳の時、彼は北京で生活をしていたが、老母と妻子は故郷武進にいて洪北江が保護していた。彼は洪北江に手紙を出して、都は生活できないと言うのは誤りだ、どうか、私の母や妻子を北京に連れて来てくれ、故郷の田畑邸宅を質に入れて金を作って費用にしてくれ、と頼でいる。

母妻子を都に迎えた。然しどうしても試験が通らず、洪北江が金を出してくれて、母妻子を故郷に帰した。度重なる落第、都の生活難に彼は疲れきっていて病気になっていた。借金の重なる浪人の身こういう受験生活は要人の保護の下に大抵お寺の一房を借りて住む。

杜甫がそうであった。法源寺に一時彼が下宿したこともある。その時の詩、二首がある。

    癸巳除夕偶成二首 (一)
千家笑語漏遅遅     千家の笑語に漏(とけい)も遅遅たるに
憂患潜従物外知     憂患はひそかに物外より知る
悄立市橋人不識     悄として市の橋に立てども人は識らず
一星如月看多時     一星の月の如くなるを看つつ時なるを多し

      々       (二)
年年此夕費吟呻     年年この夕べ吟呻を費す
児女燈前竊笑頻     児女は燈前にて竊に笑うこと頻りなり
汝輩何知吾自悔     汝が輩何ぞ知らん吾れ自ら悔い
枉抛心力作詩人     枉げて心力を抛げうって詩人となるを

除夜は詩人が一年間の作品を祭る慣わしとして作品が多い。
最後の一首は帰る時の気持ちである。友と酒も汲み交わした。菊も見た。古寺の夕靄と別れて帰る。帰って行くのは下宿の書斎。誰も待っていない冷たい部屋が待っている。

     偕王秋畦張鶴柴柴訪菊法源寺
身離古寺暮雲中    身は離れる古寺 暮雲の中
帰怯秋齋似水空    帰りて怯る 秋齋 水のごとき空しさを
瞑色上衣揮不得    瞑色 衣に上って揮い得ず
夕陽知在那山紅    夕陽 いずくの山にあって紅なるを知る

黄仲則と比較されている呉蘭雪は黄仲則よりやや遅れて詩壇に出たが、一生黄
仲則と比較される運命にあった。黄仲則の良き保護者であった一人、翁方綱が、両人の詩を合刻しようとした時、二十年たったら合刻してほしいと言っている。

乾隆四十八年35歳の三月、病をおして北京を出て西安に旅立つ。北京で官途に就こうと詮衝を待っていたが借金取りに責められ、待ちきれず夜逃げ同然、都を出て病躯太行山脈を越えて雁門を出て山西省を目指したが、途中の解州で病気がひどくなり、四月二十五日、旧知の宿舎で死亡した。

洪仲江が駆けつけて葬儀を営み、故郷に帰葬することが出来た。洪北江は書き残す「仲則は母へ手紙を書いて目をつぶったが、また生き帰って私に手紙を書いた仲則の衣料は医薬の資としてすっかり無くなり、あとには名刺や破れた冠や数本の筆しかなかった。」

参考文献
清史列伝
清高宗純皇帝実録
毛慶善(黄仲則先生年譜)
両當軒全集
洪亮吉(北江詩話)
翁方綱(悔存詩鈔序)
洪(冷斎詩話


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