千秋詩話 21

    創作の立場からの対句法  

作詩者は「措辞と声律〈平・仄押韻)に破錠があるかどうか、詩情がどのように捉えられているか」常に反省の上で古人の書を研究しない限り進歩はない。漢詩・漢文で「対句」は美意識を際立てさせる。対句について初学者に指導する専門書なるものが無い、此に先師、呂山著書を紹介したい。

唐詩鑑賞辞典(東京堂出版)前野直彬、(正確に概念規定をしている、と思はれる。)塩谷温の支那文学概論、(単音にして孤立語の中国語では最も適当な修辞法であり、例として
     気蒸雲夢沢。
     波撼岳陽城。    杜甫
気・波⇒名詞。蒸・撼⇒動詞。雲夢沢・岳陽城⇒固有名詞。・・・唐詩中有数の名句で・・)簡野道明の唐詩選詳説、五律の対句の古人の説くところが一様でない

上官儀と朱飲山の説を掲げて参考。
上官儀の六対は
正名対(乾坤・日月の如きもの)
同類対(花葉・草目の如きもの)
連珠対(粛粛・赫赫の如きもの)
双声対(黄槐・緑柳の如きもの)
畳韻対(寂寞・逍遥の如きもの)
双擬対(春樹・秋池の如きもの)
朱飲山の九対には

流水対・句中対・分装対・仮装対・反装対・走馬対・折腰対・背面対・層折対。を上げている。弘法大師の文鏡秘府論には入唐して得た当時の長安詩壇で行われた詩論・詩学書から得たものらしく二十九種の対句法を分類している。が、真の対句法は解らない。まして初学者に納得させ、対句を作らせることは到底不可能に近い。では古来詩学者は容易に律詩の対法を心得ているのは何故か。

それは分類の究明で得たものではない。前人の作品を検討し帰納し一つの対
法のこつを得たからである。比較的容易な一つの考え方を提示してくれている(方法論にもつながる)以下に記述すると。

※対句のもとになる熟語
対句の規定に文法的構造を同じくせねばならない。古人は文法の品詞論など今日のように分化して、やかましくなったものを全部知らなくては出来ないならいざ知らず、そう言う分類は知らない古人がはっきり認識していた実字・虚字・助字の三分類だけで容易にできる。実字は日本文法の体言・西洋文法の名詞に相当し、虚字はは用言または動詞・形容詞に当る。

助字はこの二大類を除いた、副詞・接続詞・助動詞・前置詞その他にあたる。実字と虚字の違いは、その前に否定詞「不」が直接くるかどうかで解る。「問」「来」「濃」「暖」の前に「不」を着けることが出来るが「山」「天」「月」「花」などは不山、不天、不月、不花、などは言わない。

助字は詩句の曲折を作るもので詩文では実に重要なものである。我々漢詩人は大いに研究しなければならんと心得る。中国でも助字弁略・経伝釈詞・詞詮などがあり、詩や詞に特有なものの研究されて来たが、わが国でも江戸時代の学者がたいへん苦労して、その方面の研究は充分やっている。文法的機能の中で熟語構成法にも対法上の規定がある。

漢語が二字の熟語を作り易いと言う言語学的な説明は省略して、青山・白水・読書・撃竹・山川・草木などの語について見れば、修飾関係・補足関係・並列関係があることがわかる。青山は「青い山」であって山を青を修飾している。

以下同じ、「山川」「草木」は「山」と「川」とが並列され対等の関係で出来あがっていることは容易に理解出来る。「地震」とか「年長」のような主語と述語の関係で出来ているもの。

「不良」とか「可能」のように善悪・力量などを認定すると言うものもあるが非常に少ない。読書・撃竹のような補足関係の語も極めて少ない。多いのは修飾関係と並列関係の熟語である。自論であるが漢詩では修飾関係語が80%。並列関係語が10%。解り難いのが、所謂、連文・連語に属するもの、又、擬声語・擬態語としてできている上に、畳韻・双声の関係を重視してできたものが、わかりにくいこれは自分自身の学習上の過程でわかるべきものに属する。

  荷香消晩夏。
  菊気入新秋。    駱賓王
荷の香りと菊の気はまさに修飾・被修飾の関係。晩夏と新秋も修飾・被修飾の関係。「消す」と「入る」と言う虚字(ここでは動詞)が挟まれている。荷香と菊気、晩夏と新秋をくらべて見ると意味的な対応が見られる。香と気とは目に見えないものであるが抽象的なものではない。それを修飾した荷と菊とは共に夏の暑さを忘れ秋の爽やかさを感じさせものである。晩夏・新秋の二語を見る時、

被修飾語の夏・秋がともに四季の一つとして同類であり、晩と新とはその季節を修飾する言葉ではあるが反対的なものである。今仮に、菊気を改めて、同じ季節のものとして蘭を入れて蘭菊としたらどうか。対法を失う。蘭菊とか菊蘭と言う時にはその構成法が並列関係になってしまうから。イケナイのだ。

  親朋無一事。
  老病有孤舟。   杜甫

二字と二字の熟語をつなぐ「無」と「有」は虚字であって意味は相対している。一字と孤舟の対はどうか。こう言うものを数目対などと分類している。数目対と言うのは、この二句全体に対して名ずけたものではない。この「一字」と「孤舟」の部分だけを数目対と考えるのである。次の問題は、字と舟との間に意味的な関連はどう考えるのであるか。どうこじつけても「字」と「舟」とに関連を説明することは困難である。

強いて言えば、どちらも名詞であると答えざるを得ない。中国の発音法の中にある語を強く意識して発音を明確にして相手に解らせるやりかたがある。それを重念と呼んでいる。ここの一字と孤舟の熟語が鮮明に意識されれば、次に置いてある「字」や「舟」の連関は軽く看なすことが出来る。

さらに言えば「無一字」と「有孤舟」とは作者の現況を述べたもので、江南に漂泊して、誰一人として慰めの便りをくれるものも無い老いと病を抱いた自分を託するものとしては、ただ「孤舟」あるのみと感概を述べたものである。ではこの「親朋」と「老病」とはどう考えるべきか。

親朋には親しい朋友とも考えられれようが老病は老人性の病とは解することはできない。それは、まさしく我われ漢詩人が最も忌み嫌う「和習」「和臭」である。そうすれば当然に並列関係のことばと理解しなければならない。

親朋は「親戚」と「朋友」とであり、老病は「老いること」と「病むこと」である。作者の頭には、そんな考え方よりも、老いること・病むことと言うふうに。老も病も虚字であり、その虚字を重ねてできた名詞と考えるべきである。朋は名詞である。親は名詞もあり、動詞もあり、形容詞もある。

「親しい友人」と解することはもとよりあるので字源にはそれしか出ていない。しかし老病は老衰して病むという同じような悲惨なことばを重ね用いた並列関係のことばであり連文なのである。

    四十明朝過。
    飛騰暮景斜。   杜甫

四十と飛騰が並列関係語としての対法がとってある。飛びもし騰がりもするという熟を並べた「飛騰」が人生の飛騰を表すことはわかるが、四十はどうか。四や十や、あるいは四と十と・・・ではない。

四と十とは掛け合わせて四十という数字になる。こう言う時は観点を四という数字と十という数字とを並べて出来た熟語だとして並列関係の語として扱われてきた。対法として古人があげたものに「仮対」あるいは「借対」という考えがある。まさにそれだ。例えば同じく杜少陵の

   酒債尋常行処有。
   人生七十古来稀。

尋常に対する七十をもってしているが、尋と常とはともに長さを測る単位を並べたできた並列関係語であることは分明であるが、七十という語も如上の見方でせねばならないものである。

以上、昭和を代表する漢詩人・呂山・太刀掛重男先生の講義収録を遺訓として一部を紹介する
               参考文献:太刀掛呂山(創作者の立場からの対句法)
                                                         00,12,12