千秋詩話  22    

      張九齢
張九齢(678〜740)字は子壽、韶州曲江(広東省曲江県)の人。七歳の頃から能文の誉れがあったと伝える、その神童であった事が明かである長安の朝廷で宰相張説に引き立てられて朝廷に立った。

張九齢は唐代において、房玄齢、杜如晦、姚崇、宋mなどと並ぶ賢宰相であり、その人物は優れていた。詩も張説から『後來詞人の称首也』と言われた。進士に及第して高書郎となり玄宗の朝廷に中書侍郎から同平章事となり、国政を担う。

性が硬直で清節を以て人に知られ一代の賢宰相であった。嘗て千秋節に群臣が皆な宝鑑(善い鏡、転じて、日常座右の銘)・「唐書、張九齢伝」「夢渓筆談、異事」「四庫提要、子、芸術類」 を献じたのに、彼は独り委曲をつくし歴代興廃の源を述べ、書五巻を作り『千秋金鑑録』と名ずけて献上した。

それで玄宗も常に畏敬せられたと言う。このころ張守珪が敗軍の将安禄山を京師に送り処置を講うた張九齢は安禄山に反逆の相がある、として之を斬ろうたしたが許されなかったのは有名な話である。

張九齢は始興県伯に封ぜられる。この年、李林甫が表に出てくる。李林甫は無学、面従後言、彼が陰険な「口に蜜あり腹に劔あり」と評判された李林甫の讒言によって排斥される。

天子に迎合し張九齢の行能を嫉み自分の一派の牛仙客を専従し政事をとらせた。張九齢は天子に諌めたが聴かれず、却って尚書右丞相とされて、政事を退いた。張九齢が李林甫ににくまれて位を去った時の詩。

    五言古詩・感遇詩。十二首の一。

孤鴻海上來。   孤鴻海上より來る。
池滉不敢顧。   池滉敢て顧りみず。
側見双翆鳥。   側に見る双翆鳥。
巣在三珠樹。   巣うて三珠樹在り。
矯矯珍木頂。   矯矯たる珍木の頂。
得無金丸懼。   金丸の懼無きを得んや。
美服患人指。   美服は人の指さすことを患う。 
高明逼神悪。   高明は神の悪しみに逼る。
今我游冥冥。   今我冥冥に游ぶ。
弋者何所慕。   弋者何の慕う所ぞ。
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独り離れた大鴈が、海上から飛んで來る。その鳥は小さな池や水溜りは決して顧りみない。側に二羽のつがいの翡翠の鳥が美しい羽を輝かす三珠樹と言う珠の木に巣を作っている(彼の二人)高高とこの珍しい木の頂上にいれば誰の目につく狙う物が黄金の弾で撃つ懼れが無いわけではない。美しい服は人が指さしあれこれ言う心配がある。高く明い家を作ると高慢な心の為に神の悪に近ずく今私は一羽の鴻となり光の届かぬ空を高く飛でいる射て鳥を捕る人どうして私を追いかけ狙うことなどあろうか、私は何の憂いも無く優游自適の暮らしを楽しんでいる。

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この詩は張九齢が失脚の後、自適の心境を述べた詩。政敵李林甫・牛仙客の豪奢高慢を風刺し抑えがたい哀情を発露したものである。陳子昂と方駕し李白と驂乗すべきすべきものと伝えられる。一方、晉の阮籍の詠懐詩に倣い、忠誠の情を鳥魚草木に託して述べたものとも言う。

玄宗の開元の治も、李林甫の登用、張九齢の失脚で凶兆が現れ、天宝の乱に向かって唐朝崩壊えと進む。張九齢の罷免が治乱の原因の一つであろう。古来より歴史研究家の指摘するところ。

        照鏡見白髪連句
宿 昔 青 雲 志。   宿昔 青雲の志。
蹉 詑 白 髪 年。   蹉詑たり 白髪の年。
誰 知 明 鏡 裏。   誰か知らん 明鏡の裏  
形 影 自 相 憐。   形影 自ら相い憐まんとは。

李林甫と相容れず、その策謀によって退けられた時に、鏡に対して不遇失意の情を述べた詩。「感遇」の詩とあわせて鑑賞すべきもので、李白の「秋浦歌」とは相似て、詩境は異なるもの共に名詩として並び賞賛されている。

   開元28年(740)に68歳で歿した。詩集に「張曲江集」がある。