千秋詩話>24>
               陸 遊
陸遊・号を放翁。(1125〜1209) 南宋時代第一の詩人・憂国の志士としての詩人で夙に有名。 陸遊が生まれた翌年、都(開封・ベン『サンズイに卞』京)は北方女真族の金の手に落ち、又翌年、北宋の天子欽宋は父徽宗と共に捕らわれて金の国に連れ去られる。

紹興13年、陸遊、二度目の上京。科挙を受験し、また落第。そのまま都の滞在。この頃に、陸游が最初の妻、唐婉と結婚したのは、20歳のころ、二人は相思相愛の仲であったが二人の結婚は真に不幸な結果に終る。

陸游の母と唐婉の折り合いが悪く、それが原因で唐婉は家を出されてしまう。唐婉は宋の帝室とも血筋のつながった趙士程と再婚。陸游も間もなく二度目の妻、王氏を迎える。

陸遊は最初の妻の面影を何時までも抱き続けていた。のちにこの二人は劇的な再会の機会を持つ。陸游31歳の時、沈氏所有の園庭で、はからずも前の妻、唐婉と再会する。その時、唐婉は夫の趙士程に語って、酒肴を陸游の元へ届けてきた。

陸游は悵然たる新たな悲嘆にくれた。有名な「釵頭鳳」。陸遊は邸の壁にこの詩余を書いて立ち去った。唐婉はこの再会ののち、間もなく世を去ったと言う。


     釵頭鳳       陸 遊
  紅酥手 黄縢酒         紅やわらかな指 黄色い紐の酒
  萬城春色宮墻柳。        街一杯の 春景色 宮墻の柳
  東風悪 歓情薄。         にくや春風 歓情は薄く
  一懐愁緒。             ひとたび愁いに とらわれては 
  幾年離索。             年を重ね 別れてもとめる
  錯錯錯。               あやまりて あやまりて あやまりて
  ・・・・・。              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

  

人づてにその詞を知り、読んだ唐婉が返歌として詠んだ詞が読む者の心に響く。 陸游の原作と同じ詞牌、同じ入声の脚韻が用いられ、その才能の高さが伺える。

      釵頭鳳      唐 婉
  世情薄、          世情は薄く、
  人情悪、          人の情は悪し、
  雨送黄昏花易落。    雨 黄昏を送り、花 落ち易く。
  暁風干、          暁風 乾き、
  泪痕残。          泪痕 残す。
  欲箋心事、        心事を箋に欲せんとす
  独語斜欄。        独語し欄に斜す。
  難、難、難。        難しい 難しい 難しい。

  人成各、          人 各々に 成り、
  今非昨、          今は昨に非ず。(今是昨非。を倒挿したもの)
  病魂常似秋千索、    病魂 常に千秋(ブランコ)の索くに似たり。
  角声寒、          角声(軍隊で夜中に吹く角笛) 寒し、
  夜爛珊。          夜 爛珊たり。
  怕人尋問、        人の尋問を怕れる。
  咽泪装歓。        咽泪せしも歓を装う。
  瞞、瞞、瞞。        瞞たり 瞞たり 瞞たり。  (隠しておく!うそをつく!)


紹興23年(1153)陸遊29歳。三度、科挙に応じて省試を受けた。秦檜(1090〜115)の孫の(ケン・土扁に員)と首位を争い一位で及第、秦檜の恨みをかった。翌年の殿試でもやはり成績は一位であったが、秦檜の妨害で落第させられ、かわって秦檜の孫(秦ケン)が首席で合格した。

秦檜死後の紹興28年(1158)ようやく福州寧徳(福建省寧徳県)の主簿につくことが出来た。乾道五年(1169)12月6日に四川省キ州の通判に任命するの報を受けた。陸遊は出発した。

揚子江を遡って旅は五ケ月余かかった。沿岸の風物・寄航した土地の風俗地理を日記風に書き記す『入蜀記』は宋代における紀行文学の傑作とされる作品。李白・杜甫。他の詩人の作品に言及すること、屡であり、叙述も懇切、読む者をして山中の美学。歴史の様々な場面に立つ思いをさせる。

雨中泊趙屯有感。 雨中 趙屯に泊して感有り。(七月二十七日の作と考えられる)

 帰燕羈鴻共断魂   帰燕 羈鴻 共に魂を断つ 
 荻花楓葉泊孤村   荻花 楓葉 孤村に泊す
 風吹暗浪重添纜   風は暗浪を吹き 重ねて纜(ともずな)を添え
 雨送新寒半掩門   雨は新寒を送り 半ば門を掩う
 魚市人煙横惨淡   魚市の人煙 横たわって惨淡たり
 龍祠簫鼓閙黄昏   龍祠の簫鼓 黄昏に閙がし
 此身且健無餘恨   此の身 且く健ならば餘恨無し
 行路雖難莫更論   行路難しと雖も更に論ずること莫けん

  陸遊『入蜀記』船旅の途中の作。
◆ 7月20日。江の中に江豚(イルカの一種)が十数頭出没する。黒いものあれば、黄色いのもある。すると、突然、数尺もの長さのあるのが現れた。色は真っ赤で、大きな蜈蚣(むかで)のようである。首を振り立てて流れに逆らって上ると、水を二、三尺の高さまであげた。ことのほか恐ろしかった。過道口に宿泊。

◆ 7月27日。今日は風が強く、夕方になっても止まない。岸に上って散歩し、夾の口のあたりまで行く。大江の中に怒涛が荒れ狂うのを見た。一艘の舟が大浪に翻弄され、二度、三度と夾に入ろうとするが入ることが出来ず、殆ど転覆しそうであった。声をかぎりに叫んで救いを求めたが、ずいぶん時が経って、やっと夾に入ることが出来た。北の方を望むと、真正面にユ山が見えた。

◆ 7月28日。舟が岸壁の下に着くと、昼間なのに急にあたりが暗くなり、風が横なぐりに吹きつけた。船頭は大そう恐れて色を失い。大慌てに帆を降ろして、小さな入り江に逃げ込もうとした。不意に大魚が現れた。真緑で腹の下が丹のように赤い色をしている。舵の傍を三尺ばかりも高く躍り上がるので、人々はみな不吉な予感を抱いたが、果たして、夕方に帆柱が折れて帆が破れて、ほとんど、修理不可能の状態になつてしまった。夜に入って風が益々強くなり纜を十本増やした。

権謀術数が渦巻き、政争にあけくれる官界を逃れて郷里に帰った陸放翁にとって、美しい山河に抱かれた江南の農村こそ、心の休まる場所であった。

     遊山西村     山西村に遊ぶ
 莫 笑 農 家 臘 酒 渾      笑う莫れ 農家 臘酒の渾れるを  
 豊 年 留 客 足 鶏 豚      豊年 客を留むるに 鶏豚足る
 山 重 水 復 疑 無 路      山重 水復 路無きかと疑う
 柳 暗 花 明 又 一 村      柳暗 花明 又た一村
 簫 鼓 追 随 春 社 近      簫鼓 追随して 春社近く
 衣 冠 簡 朴 古 風 存      衣冠 簡朴にして 古風存す
 従 今 若 許 閑 乗 月      今従り若し閑かに月に乗ずるを許さば
 挂 杖 無 時 夜 叩 門      杖を挂き 時と無く 夜に門を叩かん
    
唐婉と再会して別れた40年の後、陸游はまた沈氏の園を再度訪れる。曽って作った「釵頭鳳」の詞を彫り付けた石を見い出す。それから歳月は経ち、7年の後、陸游75歳、今一度沈園を訪れる。

その時の二首の一。陸游86歳の生涯を影のようについて離れることのなかった永遠の女性。薄倖な女性への心の痛み。自からの罪の意識。

          二首の一
城上斜陽画角哀。    城壁の上に夕日は傾き、吹き鳴らす角笛の音が悲しい。
沈園非復旧池台。    沈氏の園はもう昔の池や楼閣にかえることはない。
傷心橋下春波緑。    心を傷ましめる橋の下で春の水が緑の波をゆらめかせる
曽是驚鴻照影来。    ああ、それは驚く白鳥の影をうつしたこともあったのだ。

人生の暮年に到った時、思い出の園を訪ね、思い出の人を偲ぶこの二首は、かって激しい思慕の情も長い歳月に浄化され、それだけに心の奥底に沈潜した美しいイメージとして、しみじみと詠じられている。小品ながら、かりそめの時をともに過ごした亡き人を想う真摯な情愛がうたいだされている佳作である。 陸遊と唐氏の悲恋物語は南宋末の周密の「斉東野語」巻一。に詳しい。

祖国恢復の情熱を最後まで燃やし続けた陸遊は、愛国主義者として知られると同時に、律詩を中心とする、はば広い詩作活動により南宋詩人の第一人者と称えられている。
詩集「剣南詩稿」85巻には九千余首が集録されている。1209年歳暮故郷にて死去。85歳。


              Copyright(C)1999-2005 by Kansikan AllRightsReserved                                           http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/siwa24.htm
                           石九鼎の漢詩舘