詩話・25
             千秋詩話 ・25    
   
鄭板橋・蘭と石と

鄭板橋(1693-1765) 揚州八怪の(金農・羅聘・鄭燮・李方膺・汪士愼・高翔・黄愼・李宗)の一人。みな、畸行の士として知られ、画を好み、揚州に流寓したので揚州八怪と称される。鄭板橋は中国近代画壇に最も影響を与えた人で、画家でもあり文人である。特に好んで「四君子」 ”梅・蘭・竹・菊”を題材したが鄭板橋の 「蘭」は特に有名。詩は(金農)金冬心と双璧を為す。

鄭板橋は世間あらゆる辛酸を嘗め尽くしてきた。その結果、しっとりとした情操を涵養することが出来た板橋が山東省の縣知事の時、巡撫を含めて竹を画いた一幅の上に書いた詩。

衞齋臥聴蕭蕭竹。   衞齋 臥して聴く蕭蕭の竹
疑是民間疾苦声。   疑うは是れ 民間 疾苦の声かと
些小吾曹州県吏。   些小 吾が曹州県吏
一枝一葉總関情。   一枝一葉 總て情に関ず

板橋の芸術と彼の生活は深い生命内に基ずいている。板橋のように毎日酒盃を傾けて官職を意とせず、落胆しても逸居の気風は少しもなかった。乳母と言う可憐な追憶の詩。
          乳母詩
  
平生所負恩。      平生 負う所の恩
  
不獨一乳母。      獨り一乳母のみならず
  
長恨冨貴遅。      長恨す冨貴遅きを
  
遂令慚愧久。      遂に慚愧をして久しからしむ
  
黄泉路迂闊。      黄泉 路迂 闊し
  
白髪人老醜。      白髪 人老て醜し
  
食禄千万鍾。      食禄 千万鍾る
  
不如餅在手。      如かず餅の手に在るに

鄭板橋は四歳の時に母を亡くして、以来、祖母と乳母(費氏)に育てられた。その頃、家は貧困を極め乳母は他所へ働きに出て、彼の家の仕事を助けてくれた。朝起きると、乳母は彼を背にオンブして、街へ出かけ、一銭出して煎餅を彼に食べさせ、それから彼女の家族に分けた。

何か美味い物があると、必ず先ず板橋に食べさせて、それから彼女の家族に分けた。そのうちに貧乏がひどくなり、彼女の夫は何処かへ移る相談をした。彼女は何も言はず、泣きながら毎日毎日、彼と祖母の古着を洗濯したり縫い張り、水瓶に水汲み、釜戸に薪を積み、四五日してとうとう居なくなった。

三年後に乳母は帰って来た。そして彼の祖母を世話しながら、以前にもまして彼を愛した。板橋が進士になったとき彼女は 『坊ちゃまは出世なさるし、子供は官吏になるし、もうこれ以上のことはありません。と喜んだ。』 それから三十四年務めて七十六歳で亡くなった。その間に彼女の子供が官吏になって迎えに来たが彼女は彼と祖母のところから離れず、子供の処へは帰らなかった。

     
七歌之一首
 
鄭生三十無一営。    鄭生 三十にして 一営なし
 
学書学剣皆不成。    書を学び剣を学んで 皆成らず
 
市楼飲酒拉年少。    市楼 酒を飲んで 年少を拉し
 
終日撃鼓吹竿笙。    終日 鼓を撃ち 竿笙を吹く
 
今年父没遺書売。    今年 父没して 遺書を売り
 
剰巻残編看不快。    剰巻 残編 看て快からず 
 
竈下荒涼告絶薪。    竈下 荒涼 薪 絶えたるを告ぐ   竈(かまど)
 
門前剥啄来催債。    門前 剥啄 来たりて債を催まる
 
鳴呼一歌兮歌逼側。   鳴呼 一歌 兮して歌逼側す    逼側(せまる)
 
皇遽読書読不得。    皇遽(あわただしく)書を読めども 読むことを得ず

板橋が無方上人のために竹を画いて贈った詩。板橋の心境と芸術の真髄を見る思いがする。

      
為無方上人写竹
 
春雷一夜打新篁。    春雷 一夜 新篁を打つ
 
解筍抽梢満尺長。    筍を解き 梢を抽いて 満尺長し
 
最愛白方窓紙破。    最も愛す 白(あきらかに) 窓紙の破に方って
 
乱穿青影照禅床。    乱穿 青影 禅床を照らすを

彼は最も”蘭”を愛し、画き又詩を書く。侶松上人に荊棘蘭花を画いた詩。

       
為侶松上人画荊棘蘭花
 
不容荊棘不成蘭。    荊棘を容れずんば 蘭を成さず
 外道天魔冷眼看。    外道 天魔 冷眼に看る
 
門径有芳還有穢。    門径 芳あり 還た穢(けがれ)有り
 
始知佛法浩漫漫。    始めて知る佛法 浩漫漫たるを

鄭板橋の心境を窺がい知ることができる。板橋は”石”についても独特の妙詣をもっていた。米元章が石を論じて、痩といい、皺といい、漏といい、透と言ったのは板橋は妙を尽くしいると言う。

鄭板橋の詩は白香山。陸放翁に傲う。

     
「偶然作」の七古、開頭四句
 
英雄何必読書史。    英雄 何ぞ必らずしも 書史を読まん
 
直陳血性為文章。    直に血性を陳べて 文章と為す
 
不仙不佛不賢聖。    仙ならず 佛ならず 賢聖ならず
 
筆墨之外有主張。    筆墨の外に 主張あり

1765年12月12日卒。享年七十三。興化県城東管阮荘に葬る。
 
参考資料;鄭板橋集。中華書局
著書;鄭板橋集。
東洋の心、安岡正篤著