千秋詩話  (32)
             李賀

李賀。字は長吉(791〜817) 名は賀,父の名は晋粛。母は鄭氏。杜甫の死後21年「鬼才」と称される特異の詩人李賀が生まれた。李賀は僅か27歳の短い生涯を幽鬼の世界え消えていった<新唐書>。杜甫と李賀は親戚関係であり杜甫の詩題で「李二十九弟晋粛」と唱う。李賀は自ら「宗孫」を以って任ずる。

李賀は痩せ細り,眉の毛が濃くて長かった,若い頃から白髪が多くて,口髭や顎鬚も生やし,手の爪を伸ばし人の注目するところであった。生まれつき虚弱で,よく病気をした,李賀の伝記は死後十五年に記された杜牧の「李長吉歌詩敍」李商隠の「李長吉小傳」,が詳しい。「新唐書」「旧唐書」それぞれある。

幼少にして詩文を良くし,最も楽府を得意とし新鮮華麗で,李賀の右に出るものは居なかった。李賀は,苦しげに吟じながら詩を作るのが癖で,出来上がると大急ぎで書き付け,使いの(異民族の下男)を従え驢に乗り,古い破れた綿の嚢を背負い,何か得るところがあると,書き付けてその嚢に投げいれて家に帰る。母親は「心臓を吐き出し尽すまでは止めないだろう」と心配して何時も言っていた。

19歳のとき,李賀は地方予備試験の河南府試験に合格した,その時の河南令は韓愈(韓退之)であった。韓愈が偶々,洛陽に転任してきた,韓愈は李賀の名声が高いのを聞いて,わざわざ,驢馬を連ねて李賀を訪問した。(唐才子伝,他)

『韓文公(愈),皇甫補闕,李長吉に見る時,年17才,二公これを信ぜず,「高軒過」の一篇を試す』
李賀は総角の姿で(小児の髪を集めて頭の両側に角の形に結ぶ,小児の姿)衣を羽織って現れた。こんな子供がと信じられず,試みに詩を作らせた。高軒過の詩がある。

    高軒過 (立派な車の貴人が立ち寄られた)
華裾織翠青如葱。    華裾 翠を織り青きこと葱の如し
金環圧轡揺玲瓏。    金環 轡を圧して揺いで玲瓏
馬蹄隠耳声隆隆。    馬蹄 耳に隠として声 隆隆たり
入門下馬気如虹。    門に入り馬より下れば気は虹の如し
云是東京才子。     云う是れ東京の才子と
文章鉅公。        文章の鉅公
二十八宿羅心胸。    二十八宿 心胸に羅り
・・・・・・・・・・・・。     ・・・・・・・・・・・・・(以下略)

韓文公(愈),皇甫補闕の二公は非常に驚き,李賀を馬に乗せて連れて戻り,親しく李賀の為に束髪(成人式)をしてやった。この作品は「古文真宝」に掲載され箋註に七歳のときと記載されている。嵩じて李賀は又,官吏登用試験を志すものが,受験の前に有力者に自己の詩文を見てもらう 『温巻』を私用している。(唐詩紀事) 韓愈と李賀の深い絆を垣間見るのは今後も続く。

ある時,韓愈が客人を送り出した後,疲労困憊,休んでいた所え門人が差し出した李賀の詩巻を帯を解きながら捲っていた,最初の一篇が「雁門太守行」の七律詩だった。ハッと驚き帯びを結び直して李賀を向い入れた。

黒雲圧城城欲摧。    黒雲 城を圧して城 摧けんと欲す
甲光向月金鱗開。    甲光 月に向って金鱗 開く

角声満天秋色裏。    角声 天に満つ秋色の裏
塞上臙脂凝夜紫。    塞上の臙脂 夜紫を凝らす
半捲紅旗臨易水。    半ば紅旗を捲いて易水に臨む
霜重鼓寒声不起。    霜重く鼓寒うして声 起らず
報君黄金台上意。    君が黄金台上の意に報い
提携玉龍為君死。    玉龍を提携して君が為に死せん

韓愈は寒門出身で一匹狼として苦労し地位を築いてきた人物,一面では義侠世界の親分的性格があった。このことは韓愈の門人,李[皐 綻の一文に伺い知る。『李公公集・「答韓侍郎書」』

兄の如きは,頗る亦賢を好む,必ず甚だ文辞有り,兼ねて能く己に附く者を須つ。我の欲に順うときは,則ち汲汲孜々として憂惜する所無くこれを引抜する,如し或るは力足らざれば,則ち食を分かち以って食せしめ,至らざるなし。(以下略)

李賀と韓愈との間には特殊な関係が生まれる。李賀は河南府に合格した年,さらに中央の進士の試験に望みをもった。その時,予期せぬ横槍が入った,李賀の父の名は晋粛。父の諱が(実名)の「晋」と同音の「進士」に応ずることは 「家諱」 を犯すものだと,反対運動が起こった。

この時,韓愈は有名な 『諱の辯』を作って李賀の為に弁じ中傷に対し反撃したが,『諱の辯』も効無く李賀は断念せざるをえなかった。

   諱の辯
愈與李賀書。勧賀挙進士。挙進士。有名。與賀争名者毀之曰。賀父名晋粛。賀不挙進士為是。勧之挙者為非。聴者不察也。和而唱之.。同然一辞。皇甫G曰。若不明白。子與賀且得罪。愈曰。然。律曰。二名不偏諱。釈之者曰。謂若言徴不称在。言在不称徴是也。律曰。不諱嫌名。釈之者曰。謂若禹與雨。(略)

今賀父名晋粛。賀挙進士。為犯二名律乎。為犯嫌名律乎。父名晋粛。子不得挙進士。若父名仁。子不得為人乎。

夫諱始於何時。作法制以教天下者。非周公孔子与。周公作詩不諱。孔子不偏諱二名。春秋不譏不諱嫌名。康王剣之孫。実為昭王。曾参之父名ル。曾子不諱昔。周之時有麒期。漢之時有杜度。此其子宜如何諱。将諱其嫌。遂諱其姓乎。将不諱其嫌者乎。漢諱武帝名。徹為通。不聞不諱車轍之轍為某字也。(以下略)

愈,李賀に書を與えて,賀を勧めて進士に挙げる,進士に挙げられ名有り,賀と名を争う者,之を毀って曰く,「賀の父の名は晋粛なり。賀は進士に挙げられざるを是と為す。之を勧めて挙げる者を非と為す」と。聴く者察せず,和して之を唱え,然を同じうして辞を一にする。皇甫G曰く,「若し明白にせずんば,子と賀と且に罪を得んとす」と。愈曰く,然り。律に曰く,「二名は偏諱せず」と。之を釈する者曰く,「徴を言えば在を称せず・在を言えば徴を称せざるが若きを謂う,是なり」と。律に曰く,「嫌名を諱まず」と。之を釈する者曰く,「禹と雨と謂うが若き」

今,賀の父の名は晋粛にして,賀,進士に挙げられるは,二名の律を犯すとせんか,嫌名の律を犯すとせんか,父の名晋粛にして,子,進士に挙げられることを得ずんば,若し父の名仁ならば,子は人と為ることを得ざらんか。

夫れ諱は何の時に始まる,法制を作って以て天下に教えるは,周公・孔子に非ずや。周公は詩を作って諱まず,孔子は二名を偏諱せず,春秋には嫌名を諱ざるを譏らず。康王剣の孫は,実に昭王たり。曾参の父の名はルにして,曾子は昔を諱まず。周の時に麒期あり,漢の時に杜度あり。此れ其子,宜しく如何か諱むべき。将た其の嫌を諱みて,遂に其の姓を諱まんか,将た其の嫌なる者を諱まざらんか。漢には,武帝の名を諱みて,徹を通と為せども,又車轍の轍を諱みて某字と為せることを聞かざるなり。(以下略)



李賀に対して中傷を加えた者は白居易の詩友,元慎,字は徴之であったと言う。元慎は明経科に合格した際,李賀に面会を求めたが断られたのを恨み,李賀の受験に異議を唱えたと言う。然し之は李賀と元慎の年代的に無理がある。

李賀の進路を阻んだのは誰かは解からない,然し,韓愈の『諱の辯』の中から推察はできる。「皇甫G曰く,若し明白にせずんば,子と賀と且に罪を得んとす」と。当時,政治社会に於いて派閥関係が芽生えていた,韓愈に対するグループに対し,彼も門弟を結集させて一グループを作ったのは,必然的な流れであったか,李賀は派閥抗争の格好の餌食にされたとみる。

21歳の時,李賀は長安に出て,奉礼郎に任官した,朝廷の会議や祭礼の時の席次を決めたり,儀式の進行をとる職務は李賀にとっては不本意だった。わびしい都会生活示した詩「始為奉礼憶昌谷山居」

掃断馬蹄痕。    掃断す馬蹄の痕
衙回自閉門。    衙より回り自ら門を閉じる
長鎗江米熟。    長鎗 江米熟し
小樹棗花春。    小樹 棗花の春
向壁懸如意。    壁に向かい如意を懸ける
当簾閲角巾。    簾に当たって角巾を閲する
犬書曾去洛。    犬書 曾つて洛を去り
鶴病悔遊秦。    鶴病 秦に遊びしを悔やむ
土甑封茶葉。    土甑 茶葉を封じ
山盃鎖竹根。    山盃 竹根を鎖さん
不知船上月。    知らず船上の月
誰棹満渓雲。    誰が棹さす満渓の雲に
※ 病弱で鶴のような身で都に出たのは誤りだったと後悔する。

李賀の詩を読むと杜甫に傾倒,意識し作詩した形跡が窺える。
※ 杜甫詩,  竹批ぎて 双耳は峻つ。
   李賀詩,  竹を批ぎて 初に耳を攅まる
※ 杜甫詩,   石泉は 暗壁に流れ
   李賀詩,  石脈 水流れ 泉 沙に滴る
※ 杜甫詩,   暗に飛ぶ 蛍は自ら照らす
   李賀詩,   蟄蛍 低く飛び 隴徑 斜なり

中唐に位置つけられる李賀の漢詩の出現で新しい境地え転折し次の晩唐詩が切り開かれてゆく。晩唐の詩風の開祖,杜牧は李賀が13歳の時,生まれた。李商隠は李賀が22歳のとき生まれている。二人の詩人は李賀の文学土壌を要因し晩唐詩風を開花させて行く。

李賀の詩は 『唐詩選』『三体詩』には一首も取り上げられていない,日本で親しまれている,この両書に無いのが李賀の李賀たる由縁か。異端とされる李賀の詩には他の唐詩人に類を見ない独自と個性がある。

26歳の李賀は故郷の昌谷に帰り,翌年故郷で没した。享年27歳。優れた詩才にもかかわらず,恵まれなかった。一説には李賀の性格に因ると言う,傲慢なところがあり,自ら「皇孫」と称した,等。

2004/04/15

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