千秋詩話 6
   王維。(維字摩詰・太原の人)
「唐才子伝」に”九歳知属辞。工草隷、閑音律、岐王重之。開元十九年状元及第。”とある。王維は太元の人で九歳の頃には已に文辞を善くした、開元19年に進士に合格し大楽丞になった。

     九月九日憶山中兄弟
在異郷為異客。   自分はたった一人で他郷で旅暮らしをしています。
毎逢佳節倍思親。   
佳節の日になると一層肉親たちのことが忍ばれます。
遥知兄弟登高處。   
遠く離れていても私は思う、兄弟達が高みに登った時
遍挿茱萸少
一人。   皆な茱萸を挿ている中に私一人姿が欠けているのを。

「唐才子伝」に”賊陥両京、駕出幸、維扈従不及、為所擒、服毒称唖病、禄山愛其才、逼至洛陽供旧職。

王維の肉親思いは有名で、王維が高官になった頃、母を亡くした。直ちに官を辞職して喪に服したが、悲しみの餘り喪を続けることが出来ない程、肉体が衰えたと言う。

喪が終り、天宝中に給仕中となった。偶ま安禄山が叛乱を起こし両都を陥れ、玄宗が蜀に蒙塵した際に、王維は賊に捕らわれ従復することが出来なかったから、自ら薬を飲み偽って唖病と称した。

禄山は素より王維の才学を知っている為め、これを憐れみ人を遣わし強いて迎え、菩提寺の給仕中とした
、『旧伝』言・「妻亡不再娶、三十年孤居一室、屏絶塵累」『唐才子伝』に言う。「喪妻不再娶、孤居三十年」

妻を喪ってから復た娶らず、三十年間も孤独生活を守り、一室に閑居し塵累を屏絶した。この句、起句の”獨り”結句の”一人を少かんことを”以って味合うべしと古人は言う。

☆ 王維に就いて最も興味が有るのは我が国の遣唐使(留学生)であった”阿部仲麻呂”との交流である。仲麻呂は唐室に使えて「朝衡」と言いその官職は秘書監であった。我が国の図書寮の役人のようなもの。

天平勝宝(749〜756)中に遣唐使藤原清河が唐に往った時、玄宗は仲麻呂に命じて応接させ清河が日本に還るとき仲麻呂もまた帰朝することになった。彼は「送秘書晁監還日本」を賦して餞別している。晁は朝の古字で秘書晁監の晁氏と言う意味。そして有名な

        あをふな原ふりさけ見れば
                  春日なる三笠の山にいでし月かも

この秀句は仲麻呂が明州に至り船に乗ろうとして海上から月の昇るのを眺め、懐郷の情に堪えず作った。然し、この時仲麻呂は帰朝の目的を達せず、暴風に遭い安南に漂着してしまった。

        送秘書晁監還日本   王 維
積水不可極。   
水の集った大海の涯を極めることは出来ない
安知滄海東。   
まして、この青海原の東に日本の国があろ考えることも出来ない
九州何處遠。   
中国本土の如きものが九つ在ると言うが、日本は最も遠い所だろうか
萬里若乗空。   
そこは萬里の虚空を昇って行くような遠い果てなき旅だろう
向国惟看日。   
故国に向っては日の出る所をただ目当てにするだけで
帰帆但信風。   
帰る船の帆はただ風にまかせて行くより他に方法がない
鰲身映天黒。   
海の大亀が時に身体を現すと、その背の色は天に映って暗いと言う
魚眼射波紅。   
大魚の眼は波を照らして海も赤く見えると言う
郷樹扶桑外。   
郷国は扶桑と言う巨大な桑の木の彼方にあり
主人孤島中。   
貴方の家は東海の孤島の中にある
離別方異域。   
こうして今こそ我国と境域を異にして君と別れてしまえば
音信若為通。   
便りもどうして通ずる事が出来ようか、そう思えば名残は尽きない

安部仲麻呂は復た唐に入り遂いに唐で死んだ。齢は古稀を超えていた。今、西安市の南門、  城壁の外側すぐ東にある、公園内に記念碑があり、市の和平門外、咸寧路の興慶宮公園には阿部仲麻呂の記念碑がある。仲麻呂の留学1200周年を記念して、1979年に建設されたもので 望郷の念を抱きながら何の地で骨を埋めた仲麻呂、今この公園は中国人の憩いの土地でにぎあう

87′この地を始めて訪れた時は公園も荒れ地に草茫茫で心の形容し難い想いだった。仲麻呂の記念碑が悲しそうに見えた。あれから以後3度訪れた。今では立派な公園になり碑も威厳がある。

       ☆ 王維の眼力。
在る時、友人が王維に秘蔵の「奏楽図」を見せたことがある。王維はその図を暫らく眺めて大声で笑った。友人はわけが解らず、その理由を問うた、王維は”この絵は入神の技を伝えている、女の楽人が「霓裳羽衣の曲」の第三畳第一拍を演奏している場面を描いたものだ”と答えた。

友人はとても信じられず、君は自分の博学多識をひけらす気か!と非難した。暫らくして、この友人は親王府の宴席に招かれた。宴席には余興として歌舞が演じられる。楽人の指揮者が進み出て「霓裳羽衣の曲」を演じますと言ったので、ふと、彼は王維の話を想い出した。

そこで、よくよく気を付けていると、成る程、第三畳第一拍の所に描かれている所とぴったり一致だった。

蘇東坡が王維を評して『詩中に画あり、画中に詩あり』と嘆賞した。王維は曾て『雪中の芭蕉』を描いたと言う。南画の奥技を禅味で表現したものであろうと言はれている。又、彼の描いた「網川図」 は筆墨微を極め妙に入ったものと言う。網川荘は晩年に宋之問の藍田別荘を買取ったものである。
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