千秋詩話  7
   陶 潜(365〜427)

字は淵明。又は元亮、東晉の潯陽の人。潯陽は、北に長江が流れ、近くに名勝盧山が聳え、風光明媚、気候温暖の地である。

陶潜は、若くして両親を失い貧困の中で成長したが学問を好み、田園の自然を愛し詩文を善くしたと言われる。曾て彭澤県の県令となった。県令となって八十日過ぎて偶々県の督郵(巡察官)が政務の視察にやって来た。

その時属吏が陶潜に言った、『必ず礼服を着けて督郵に面謁すること』陶潜は嘆じて『俺はどうして五斗米の給料を得る為め、田舎の小僧輩に腰を屈めて拝することができようか』。と言って、即日、県令の印綬を解き職を辞してしまった。

そして「帰去来辞」を作り「五柳先生伝」を著した。時は義熈元年の11月だった。義熈元年は桓玄が誅に伏した翌年で劉裕が晉の天下を奪い政を専らにする歳である。淵明は義熈以後の年号は決して自分の詩文などに記入しなかった言はれている。

陶淵明の詩の中で最も知られているは「飲酒二十首」のうちの「其の五」であろう

結盧在人境。    盧を人里に結んで住んでいるが
而無車馬喧。    貴人の車馬の来訪する喧しい音はない 
問君何能爾。    どうしてこんなに静かに暮すことが出来るかと言うと
心遠地自偏。    心が遠く世俗を離れていれば住む地も僻遠の地になる
采菊東籬下。    家の東の籬の下に咲いている菊を採って立上ると
悠然見南山。    ゆったりと南方の山を見るともなく眺めるのである 
山気日夕佳。    山に湧く気は、日中でも夕方でもそれぞれ美しく 
飛鳥相與還。    朝出た鳥が夕方に飛び連れて山に帰って行くのである
此中有真意。    その中に万象の奥の真理、自然の道理の意味を感じる
欲辨已忘言。    語ろうとすると言葉を忘れ、真実は言葉では語れない

「悠然として南山を見る」の語に深い意味がある。これを「南山を望む」とすると、「一語を改めれば一篇の神気索然たり」と蘇東坡は評している。

白楽天の「効淵明詩」(淵明に効う詩)に「時に傾ける一壷の酒、坐して望む東南の山」とあるのは、また別趣であると理解したい。またそれゆえに意識的にこの詩に倣ったものとしての興趣はある。

☆ 夏目漱石(1876〜1916)は【草枕】の中で以下のたまいける。【うれしいことに東洋の詩歌はそこを解脱したものがある。採菊東籬下、悠然見南山。

ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣ねの向こうに隣の娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的の利害損得の汗を流し去った気持ちになれる


    獨坐幽篁裏。弾琴復長嘯。深林人不知。明月来相照。(王維)

ただ二十字のうちに優に別乾坤を建立している。淵明・王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人間の天地に逍遥したいからの願い。一つの酔興だ。淵明だって年が年中南山を見詰めていたのでもあるまいし、王維も好んで竹薮の中に蚊帳も釣らずに寝た男でもなかろう。やはり余った菊は売りかこして、生えた筍は八百屋え払い下げたものと思う。】

 
O!漱石先生 I'm pleased as Punch!
 
☆以下、石川啄木(1886〜1912)は12/27/1907の日記にはこのように書いている

読淵明集。感多少。嗚呼淵明所飲酒。其味遂苦焉。酔酒酔苦味也。酔余開口哄笑。哄笑與号泣。不識孰是真惨。

注釈) 淵明集を読んで、感ずる所が多い。嗚呼淵明の飲む所の酒、其の味、遂に苦かりし。酒に酔うは苦き味に酔うなり、酔餘口を開きて哄笑す、哄笑と号泣と、識らず孰れかに真に惨なるかを。

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