千秋詩話 9
  陳子昂(661-702)

字は伯玉。梓州射洪(四川省)の出身。富豪の家に生まれ任侠を好み、常に博徒と遊び十八歳まで少しも読書は解せなかった。後に郷校に入り、大いに前非を悔い感憤し経籍に傾注し、経史百家の書に通じた。又詩文を善くしたので、当時相如、子雲の風骨ありと称された。陳子昂が始めて「感遇詩三十八章」を作ると王適がこれを見て甚だ奇とし「此子は必ず海内の文宗となるだろう」と言い、進んで交際をした言う。

   登幽州台歌       (
幽州の台に登る歌
前不見古人。   
過去に目を凝らし古人を見ようとしても出来ないことである
後不見來者。   
未来に生を延ばし未来の人に逢おうとしても、かなわぬことだ
念天地之悠悠。  
永遠にして窮まりない天地のことを考えると人生の儚さがしのばれ
獨愴然而下。    
ひとりでに悲しみの涙がはらはら流れるのである

☆世の俗衆が、ただ現世の利欲にあくせく働いているだけなのを諷刺している。興亡の古い歴史を背景にした幽州台上、無限の天地を前景にして悄然たる孤影が目に浮かぶ「この道や行く人なしに秋の暮れ」芭蕉の句意に通ずるものがある

      感遇詩 二首之一     
朔 風 吹 海 樹。  
朔風は海辺の樹を吹いていかにも物淋しい 
蕭 條 辺 已 秋。  
もう已に辺地は秋の景色となった
亭 上 誰 家 子。  
あの亭上に居るのはどこの家の子だろう
哀 哀 名 月 楼。  
此の名月の夜に兵営の中で頻りに哀んでいる
自 言 幽 燕 客。  
自分は幽燕の地の者で、 
結 髪 事 遠 游。  
若い時分から遠遊することを仕事にしている
赤 丸 殺 公 吏。  
赤丸で公吏を殺したり
白 刃 報 私 讐。  
白刃で私讐を報いたともあった 
避 讐 至 海 上。  
その後仇を避けて海上にさまよい
被 役 此 辺 州。  
とうとう此の辺地に来て労役させられる身の上となった
故 郷 三 千 里。  
故郷へは三千里もある
遼 水 復 悠 悠。  
遼水へも亦遠い
毎 憤 胡 兵 入。  
常に胡兵の侵入することは
常 為 漢 国 羞。  
我漢国の侮辱であると憤慨を発し
如 何 七 十 戦。  
どうです七十回も戦争をしました
白 首 未 封 侯。  
然し白髪頭になったこの齢になっても諸侯に封ぜられません

此の『感遇詩』は斎梁時代以后の綺靡浮艶体を積弊を一掃し、詩風上ただちに開元天宝の唐朝代の音韻の正派を開いたと言はれている。特に李白の「古風五十九首」は皆な陳子昂の三十八章を換骨奪胎したものであり、韓愈は「国朝文章盛んにして子昂始めて高踏す」と賞賛し、王士禎も「亦嘗つて魏晉の風骨を奪い、梁陳の俳優を変ずるは、陳子昂の力量、最も大にして張九齢。これに継ぎ、李白又その次なり」と言っている。

陳子昂、無念なことは女傑則天武后に言いくるめられ「大周受命頌」を作り、武后の意趣を迎えた為、後世の人から偽朝の天子に媚び、節義が無いと謗られていることである。

しかも彼は武后から格別に寵用もされず聖暦元年(698)老父につかえるべく郷里に帰った。陳子昂の家の財産に目をつけた縣令の段簡に捕らわれ、無寃の罪に陥れられ二十万緡を強奪され、その上縄絏の辱めを受け、長安二年(702)四十二歳で獄死した。

李白、杜甫などの盛唐の詩人の先駆をなす、初唐の革新的詩人であるとされる。陳子昂が齢三十一で始めて京師に入った時、何人にも彼の名は知られていない。たまたま胡琴を売っている者がいた。立派な胡琴ではあるが、とにかく百万金と言う法外な値段で、都の富豪も手を出してこの胡琴を買うと言うものは一人もいなかった


然し彼は側から突然進んで百万金を投げ出してこれを買った。群集は驚異の眼を向けて「何に使うのだ」と聞くと、「私は胡琴を弾くのが上手なんですよ」と言う、多くの者は「それでは貴殿の胡琴を弾くのを聞かせて戴きたい」と叫んだ。

「よろしい、明日皆さん宜陽里の街え、おいで下さい。私が弾いて聞かせてあげましょう」と返答した。そこで翌日群集が約束通りやって来ると、彼は酒肴の用意を整え、胡琴の前に飾り、此れらの人人に大宴会を開いた。食事がすんでから、彼は琴を捧げて「蜀の人陳子昂、百巻の詩文を、都え持参しましたが塵土にまみれ、人に知られぬままになっております。

この胡琴は賤しい芸人の道具、心にかけるほどのことがありましょうか」と言いながら、琴を打ち砕いて、自分の詩文を集った人達に全部贈与した。それから一日中に声名は全都に響き渡り、彼の文集は百万金以上に認められるようになった
                                                   (獨異志)