荘子
紀元前四世紀半の戦国時代の思想家.道家思想の中心人物。名は周。南華真人と称される。孟子と同じころの人。儒教の人為的礼強を否定し、自然に帰ることを主張した。世に老子と合わせて老荘という。著に「荘子」がある。(生没年不詳)

ドブの中の哲人。深遠な思想と痛烈な風刺と洒脱な寓言とをちりばえた変幻奔放な文章に託して表現しようとした奇矯な哲人である。奇矯な哲人の面目を現代に伝達に「荘子」また時には道教の教典めかして「南華真教」とも呼ばれる33篇の奇書がある。全部が荘子の自筆では無い。彼の後学の手によって書かれたものも含まれている。

荘子一生の足跡は、生まれ故郷の宋国を中心として、近隣の諸国、魏・楚・趙・陳にも及ぶ。司馬遷の「史記」によれば、荘子はかって蒙の近くの漆園と言う土地の小吏、あるいは漆の園の番役人であった。それが何時の時代かは明らかではない。

精神の自由を欠いた富貴よりは、精神に満ちた貧賤を、彼は好んだ。精神の自由を外にして、いたずらに富貴と貧賤にかかずらうことは、無用な分別、浅はかな思慮と荘子は考えた。

北の海の果てに鯤と言う魚がいて、頭から尾まで何千里もある、計り知れない大きいさである。この鯤と言う魚が変身すると鵬と言う鳥になる。何千里とも知れない荘胴体、翼を広げて飛び立てば、空は黒雲に覆われたかと思われる。開巻冒頭から、スケールの大きな寓話で始まる。「荘子」は心の疲れを感じた時に読むべしと言う。荘子はまた言う。「すまじきものは宮仕え」。戦国時代、有能な人材が広く求められたときであった。家柄とかコネとかに関係なく、その意思。能力さえあれば出世できるのである。

荘子がいつもの濮水で釣りを楽しんでいた。楚の重臣が二人、王の内命を帯びて訪ねて来た。「我が楚の国の宰相となって頂きたい」荘子は言う「そなたの国には死後三千年も経った霊験あらかたな(亀の甲羅)がるそうな、ところで、その亀は甲羅を拝んでもらうのと、泥水に尾を引きずりながらでも、生きていた状態と、どちらが良かっただろうか。」「わしも泥水の中で尾を引きずっていたいのだ。どうぞ、お引取りくだされ」無用の用。価値観の逆転。既成の価値観をまったく逆転させる心の遊びを「荘子」は比喩を込めて教えてくれる。

有用か無用か、是か非か、善か悪か、人間は事物を対比して区別しようとする。荘子は、人間の「こざかしさ」だと言う。無窮の宇宙の小さな一点にも満たない人間が、万物の霊長などと言い、驕り高ぶるな!自分の価値観を振り回し、あるがままの自然界を、人間自身を滅亡させることになる。

人間の判断は、常に相対的なものであって、絶対的な正しさなどというものは何処にも存在しない人間は「知」に頼り、自己の判断を絶対視して対立しあう。ここに知的動物である人間の宿命できない悲劇があると荘子は言う。人間に生まれてから死ぬまでに大きな変化が四つある。嬰児期と少壮期と老衰期と死期とである。「天地は廻り廻って止むことがない。冥冥のうちに推移してゆく。万物は一方で減少すれば他方で充満する。その切れ目をたれも知らない。人生は夢か現実か。まぼろしか、いっときの幕も終わりぬ。

ある時、同じ宋の国の曾商という男が、宋王の命を奉じて秦王に使いし、百乗の車を賜って意気揚々と引き上げて来た。荘子と知り合いの仲である、曾商は荘子の住まいの「あばら屋根」に訪ねてきて曰く:「君みみたいに、こんな、貧乏長屋にくすぶって、草履ずくりの手内職にあくせくと身を費やし、痩せさらばえ、土気色の顔を晒すなんか、苦手なたちだ、見たまえ、大きな国の殿様相手に弁説をふるい、車百乗をせしめる、こういう寸法さ」

荘子曰く:「成る程なあ、然し俺の聞いている話じゃ、なんでもその秦の殿様というのは、病気で医者を呼んだとき、腫れ物をつぶしtた奴には車一乗、痔を舐めて治した奴には車五乗くれたそうじゃないか。汚い物を治せば治すだけ車の数が多いとすると、おまえさんも、きっと痔でも舐めた組だろう。きたならしい。さっさと帰ってくれ」 手内職の草履を作りながら昂然と嘯く。

ある時、荘子は楚の国に行く途中、道端に野ざらしの髑髏を見た、手にし鞭でそれを叩きながら、荘子は語りかけた「髑髏の主よ、御身は生を貪り嗜欲にくらんで、かくなり果てたか、将又、不善の行いを犯し父母妻子に恥を残すのを羞じてかくなり果てたか、」言い終わった荘子は髑髏を引き寄せると、それを枕に臥した。その夜半、髑髏が夢に現れて語るには「御身の語ることは、みな人の世の患い。死者の世界には、ほとんど縁のないことじゃ。聞きたければ聞かせようか」

荘子は「うむ、聞こう」髑髏は曰く:「さても死者の世界にはな、上に君無く下に臣なく、また四時の別すらない、ただ悠々と永遠の天地を以て春秋とするばかり。この楽しさは、人の世の南面の王者の楽しみにも及びもつかぬことだろう」 荘子はなお信じかねて問いかける。
「もし私が天神を乞い、御身の形態を旧に復し、御身を父母妻子故友のもとに戻らせようとするなら、御身それを望むであろうか」髑髏は顔を顰めて答えた、「愚かなことえを聞くものよ、何故、己が南面の王者にすぎる楽しみを捨てて、浅はかな人の世の苦労を取ろうか」

髑髏の夢に終わらない荘子一流の哲学がある。荘子は生活の実際に於いても体験せんとした、荘子の妻が死んだ時のことである。恵子がそれを聞いて弔問にやって来ると、荘子は横座りのままで、かわらけ鉢を叩き、いとも楽しげに歌を歌っている。さすがの恵子も眉をひそめて「おい!君、仏に対して哭さぬだけならまだしも、鉢を叩いて歌までうたうとは、あまりじゃないか」

荘子は平然として「いや〜俺だって始めは妻が死んで悲しく思わなかったわけじゃない。然しな、生と死の移りゆきは四時の循環と同じことじゃないか、せっかく天地を寝床にして、安らかな眠りを楽しんでいる仏の傍で哭き、わめくのは、天命の自然をわきまえぬ、浅はかな仕業と思うので哭くのを止めたたのだ」

荘子は、ほぼ七十五、六歳まで生きたようだ。生涯については詳しくは解らない。極貧の暮らしをしていたことは監河候の元へ借金を申し込みに行った話。継ぎ接ぎだらけの服を着て、麻紐で靴の穴を縛り魏の恵王に遭いに行った話。常識を逸脱と考えるのは常人の考えで荘子には、己の是とする価値観にとらわれて行動する、不思議ではない。

荘子が危篤状態に陥った、臨終の場に集まった弟子たちに荘子は「天地はわたしの棺桶で、日月星晨は宝器、万物は会葬者なのだ、この上なにも付け加える事はない」弟子たちは納得しない、「それでは、先生の身体が鳥に食われてしまいます」地上に放置すれば鳥にも食われよう。地下に埋葬したところで虫の餌になる。それでは不公平と言うものだ。己の賢をたのむ者は、知を働かせ事物に支配されるが、賢知の所有者はただ無心に事物に順応するだけだ。賢知は所詮、賢知には及ばぬ、この道理を知らぬ人々は、自己の判断に固執し作為を弄する。何時までも束縛から解き放たれない、まったく、哀れと言うべき。