謝霊運
謝霊運。河南省陳州府・大康県治の出身。晋の車騎将軍・謝玄の孫である。少時より学を好み、群書を博覧し、文章は江左に冠絶し、名を顔延之と斉しくした。文帝は之を「三宝生」と称した。康楽公に封ぜられ邑二千石を食んだ。平生奇異なことを好み、車や衣装まで皆な別に新製した。次に意匠を凝らしだしたので、世人は之を「謝康楽式」と名ずけた。

大子左衛率となったが、糄屈なうえに礼儀も弁えないので、朝廷では文士を以て之を遇した。そこで彼は憤懣に耐えず、益々放逸に流れ罵声を恣にしたので、出されて永嘉の太守となった。彼は永嘉に赴くや山水に放浪し少しも政事を顧みず僅か一年余で職を罷め、会稽山に住し、族弟・謝恵連、何長瑜、荀雍、羊瓊之等四人と山沢の遊をなした。時人はこれを「四友」と称sた。

霊運は峰に登り嶺を渉るに幽険を意とせず、常に木履をつけ、山に上る時は其の前歯を去り、山を下る時は其の後歯を去ると言う風であった。この新発明の「履」を世に「謝公履」と言った。その後、臨川の内史に任ぜられたが、元来、晋の遺臣で宋朝に事ふることを快とせず「韓亡子房奮。秦帝魯連耻」と言う詩を作った。そこで異志あるものと認められ、讒に遇い擒れて棄市せられた。時に元嘉十年。享年四十九であった。

   石壁精舎還湖中作  (石壁精舎 湖中より還るの作)
黄昏変気候。   黄昏 気候 変じ
山水含清暉。   山水 清暉を含む
清暉能娯人。   清暉 能く人を娯しましむ
遊子憺忘帰。   遊子 憺として帰るを忘れる
出谷日尚蚤。   谷を出でて 日 尚を蚤く
入舟陽已微。   舟に入りて 陽 已に微なり
林壑剱瞑色。   林壑 瞑色を 剱め
雲霞収夕霏。   雲霞 夕霏を収む
芠荷迭映蔚。   芠荷は迭いに映蔚し
蒲稗相因依。   蒲稗は相因り依る
披払趨南逕。   披払して南逕に趨る
愉悦偃東扉。   愉悦して東扉に偃す
慮澹物自軽。   慮は澹にして物は自ら軽く
意愜理無違。   意は愜りて理に違う無し
寄言攝生客。   言を寄せる攝生の客に
試用此道推。   試みに此の道を用いて推せと

  「詩語」
(剱)=おさめる。
(夕霏)=夕もや。
(蒲・稗)=ともに水草。
(慮澹)=心に欲がなくて静か。
「訳文」
石壁精舎の朝夕には気候が変わり、山水は清らかな光を含む。その光景は心を和ませてくれて、帰るのも忘れる。石壁精舎を出た時には太陽はまだ高く時間が早い時期だった。
巫湖から帰る舟に乗った時には、日陰もうすらいだ。谿も林も暮色に隠れ、夕焼け雲は靄の中に消える。
近くの、菱と蓮の色が映りあい、蒲と稗は寄り合ぅている。南の小道の草を、掻け分けながら進む、そして我が家に着いて心たのしく休息した。
自分の心は静かで外物をもとめず、満ち足りて道にかなう。生を養おうとする人に告げる、「慮澹」「意愜」ことを試されてみなさい。





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