春秋左氏伝     (1)宋襄の仁

         僖公
(荘公の庶子,閔公の庶兄,在位 前639~627)

魯の国の年代記を孔子が作ったと伝える『春秋』を儒家はこの簡潔の表現の(春秋の筆法)の中に,孔子の歴史事実に対しての見方・評価・世界観を,どのように解釈するかが大きな問題であった.漢の時代に『春秋三伝』と言う三種の注釈書が既に作られていた.それは魯の左丘明の作と伝えられる.

『左伝』,斉の公羊高の『公羊伝』,魯の穀梁赤の『穀梁伝』,の三種である.『穀梁伝』『公羊伝』『左伝』を会わせて『春秋』左伝と呼ぶ.『穀梁伝』『公羊伝』は経文の僅かな表現の違いの中に孔子の主張する大義を読み取る方法を取る経学系に対し『左伝』は史学系に属する.『左伝』は史学系であると共に文学価値も飛びぬけて高い,とされている.歴史文学作品として最初の画期的なものである。                         
左丘明は孔子の弟子であるとされている,成立年代も戦国時代の末と考えられる.『左伝』筆者は春秋時代の子産・叔向・晏嬰など政治家の心理面~動向を際立って鮮明に描き記述し戦闘場面の描写が極めて得意面目躍如,此れが後世の人人から「叙事文の手本」と尊敬さる由縁であろう。

叙事文の重要な要素は「事実の取捨選択と用意の整理」である『左伝』の文章は中国文学,一般的な
漢文と言う部類のなかで,最も磨きかかった簡素な美しさでは最高のもである,(奥野信太郎)

         廿二年,春,王正月,城楚丘
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廿二年,春,公伐邾取須句,冬十一月己巳朔,宋公及楚人戦于泓.宋師敗続.楚人伐宋以救鄭.宋公将戦.大司馬固諌曰,天之棄商久矣.君将興之 弗可赦也已.弗聴。

冬十一月己巳朔,宋公及楚人戦于泓,宋人既成列,楚人未既済.司馬曰,彼衆我寡。及其未既済也,請撃之.公曰,不可.既済而未成列.又以告.公曰,未可.既陳而後撃之。宋師敗続,公傷股,門官殱焉.国人皆咎公.公曰,君子不重傷,不禽二毛.古之為軍也。不以阻溢也.寡人雖亡国之餘,不鼓不成列.子魚曰,君未知戦.勍敵之人,隘而不成列天贊我也.阻而鼓之,不亦可乎.猶有懼焉。

且今之勍者,皆吾敵也.雖及胡耇,獲則取之.何有於二毛.明恥教戦,求殺敵也.傷未及死.如何勿重.若愛重傷,則如勿傷.愛其二毛,則如服焉.三軍以利用也,金鼓以声気也.利而用之,阻溢可也.声盛致志,鼓儳可也


          廿二年,春,公伐邾取須句,冬十一月己巳朔,宋公及楚人戦于泓.宋師敗続.
楚人,宋を伐ちて以て鄭を救う.宋公将に戦はんとする.大司馬固く諌めて曰く,天の商を棄つること久し。君将に之を興さんとす 赦さる可からざるのみ,と.聴かず.

冬,十一月己巳朔,宋公,楚人と泓に戦う,宋人 既に列を成し,楚人,未だ既くは済らず.司馬曰く,彼は衆く我は寡し.其の未だ既くは済らざえうに及び,請う之を撃たん.と.公曰く,不可なり.と.既く済りて未だ列を成さず.又以て告ぐ.公曰く,未だ可ならず.と.既に陳して後に之を撃つ。宋の師敗続し,公 股に傷つき,門官 殱きたり.国人 皆な公を咎む.公曰く,君子は傷を重ねず 二毛を禽にせず.古えの軍を成すや.溢に阻するを以いず.寡人,亡国の餘と雖も列を成さざるに鼓せず,と。子魚曰く,君未だ戦を知らず.勍敵の人,隘にして列を成さざるは 天 我を贊くなり.阻にして之に鼓せば,亦た可ならざるや.猶を懼れ有り.且つ今の勍き者は,皆吾が敵なり.胡耇に及ぶと雖ども,獲ば則ち之を取らん.

何く二毛に有らん.恥を明かにし戦を教えるは,敵を殺すことを求めることなり.傷つくも未だ死に及ばずんば.如何ぞ重ぬること勿んや.若し傷を重ねることを愛せば,則ち傷つくること勿きに如かんや.其の二毛を愛せば,則ち服するに如かんや 三軍は利を以て用い,金鼓は声を以て気するなり.利有りて之を用いれば,溢に阻するも可なり.声 盛んにして志を致せば,儳に鼓するも可なり,と.


泓の戦いは,諸侯の盟主の面目を保つ宋の襄公と,阻止し自國の強大を図ろうとする楚の成王の両者の一大決戦である.然し,宋は大敗した,然も襄公は重傷を負う,襄公は翌年の五月に死亡した.

襄公は大司馬の進言を入れ無かった.進言を入れて楚軍が泓水を渡る前,隊形が整う前に勝負を仕掛けていれば戦の勝負はどのように展開したか判らない.

襄公は,古からの君子の戦法を用いた.敵が態勢を整えるのを待った,堂々と戦って負けた.十八史略では『世,笑って宋襄の仁となす』と述べて.襄公を嘲笑している.『左伝』も子魚の論では賛意の態度では無い.然し『公羊伝』では『君子,其の列を成さざるに及ぶは鼓せざるを大とする』.大事に臨みし時,大礼を忘れず,君ありて臣無し,古を思えらくば,文王の戦いと雖もまた之に過ぎざるなりと激賞する.

歴史は事実の検証致し難きと雖も新資料出現を望む,戦いには『偏戦』と『詐戦』とが有ると聞き及んだ.
『偏戦』とは両軍が予め場所・日時を決め両軍の態勢が整う,然る後に攻撃を開始する.『詐戦』とは敵の不意を衝き急襲するを言い,賤しまれた.

襄公は『偏戦』を以て戦に望んだ『詐戦』を嫌い,戦に負けた.そして負傷が死に追い込んだとみる.非現実主義の理想論を激論し覇者を正当化する論が『公羊伝』にはあるように思う.斉の桓公の覇業を論じたのが一例でもある.