中国歴史紀行

                   南京大虐殺殉難同胞記念館
                 侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記

南京市郊外の江東門近くに、「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」があります。
紀念館の敷地は二万五千平方メートルをしめ、そのうち建物は二千百平方メートルの建築面積で、資料展示館と遺骨陳列館の二つがあります。花崗岩、大理石などで塀が作られて、荘重で厳粛な紀念館正面の壁面には「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の館名が刻まれています。右側の階段を登ると、その正面に、中・英・日の三カ国後で「遭難者30000」の文字が黒く大きく刻印され、参観者は極めて強い印象を抱くようにされています。紀念館の入口には次のような中国語と日本語の掲示がある。

 1937年“7・7”事変(溝橋事変)が起きて以来、日本帝国主義は中国全面侵略戦争を大規模に起こした。日本軍はまず北京・天津を占領し、続いて華北を攻撃し、まもなく上海を占領した。つづいて12月13日南京をも占領し、ついて中国の捕虜兵士および罪なき平民に対して世に例なき血生臭い大虐殺を繰りひろげた。時間は6週間の長きに達し、手段はきわめて残忍で、殺す、焼く、強姦する、略奪する(三光作戦)を同時におこなった。
                  
被害にあった中国民衆の総数は30万人以上に達する。この世をあげて震憾させた歴史的事件は、中国侵略の日本軍の無数の暴行のなかで最も集中した、最もきわだった一例である。本館に展示した関係写真と資料は歴史の証人である。 中国人民抗日戦争勝利40周年を記念し、わが中国同胞を追悼するために、南京市人民政府は本館の建設計画を決定した。その趣旨は、歴史によって中国くの人民大衆と子孫後代を教育し、強大さを求め、中華を振興し、わが国が一貫しておこなってきた独立自主の平和外交政策を堅持し、中日友好を強め、あわせて世界各国の人民と共に、侵略戦争に反対し、世界の持続的平和を維持する。

                                                   壁面に石碑


13年ぶりに再訪した。毎年8月6日原爆慰霊日を向え,被害者側意識と加害者者意識に戦争の悲惨さを想い起こさせる。「殺るか,殺られるか,戦場では一つしかない,戦争経験者は言う。」戦争を知らない私は戦争体験者の古老から何時も聞かされてきた言葉である。南京大虐殺殉難同胞記念館は中国では,侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館と言う。言い方も直裁的である。【日本では一部、犠牲者数、及び事件を懐疑する向きもあるが。】

広大な敷地に改善され新しく新築されていた。以前の陰湿な表現形式な面影は無く,訴え方が心に何時までも響く,それだけに加害者側の一市民にはズシリと重く残る表現形式であった。正面を入ると右側に平和を象徴する「白鳩」鳩舎が在り数百羽養育されていた。鳩による敷地の汚染を考慮したものだ。

先ず眼に飛込む「遇難者VICTIMS遭難者30000」の大文字。建物の勾配のある坂道を上ると眼下に広大な敷地に何万という球形の石が大小無数に放置されている。芝生に無造作とも思える大小無数の石は,実は頭蓋骨(サレコウベ)に摸した物だった。以前,山と積まれた髑髏は見当たらない。

右折する路の厚さ50cm位の壁面に石碑で出来たレリーフ15枚,間隔を置き45個の石碑の“苦悩に満ちた人間とは思えない表情,怒り,悲しみ,呆然の姿は”は見る者を戦慄させる。

入場券の他に副券で資料館に入る。《歴史遺留の罪業》が1mХ1.5m大のパネル写真が200枚。当時の殺戮模様を展示する,思わず正視できない酷い殺戮写真が延々と続く。嘔吐を覚える,此処には人間の理性は無い。正に殺すか殺されるかの終焉そのもの。

中央室には上映設備が完備し,200名位の椅子が整然と並べられ,清潔さが場所に不釣合いな感覚さえ覚える。『史料陳列庁』に入る。

《日軍在鎮江的暴行》《日軍在常州的暴行》《日軍在無錫惨案》《日軍在蘇州惨案》《日軍在上海的暴行》 三光の限りを尽くした旧日本軍の残虐なパネル写真に胸が痛む。

次に写真コーナー。“松井石根,朝香宮鳩?,武藤章,柳川平助,中島今朝吾,谷寿夫”南京殺戮関係者として写真パネルで大きく表す。“百人斬り超記録,向井ー106,野田ー105”と目を背けたくなる表示。

“奸淫婦女暴行” “日本侵略軍に輪姦され病気になった十六歳の少女” の写真に至っては人間の為す業に言葉も無い。果ては「1938年1月,日軍南京慰安所」と書かれた,ある部屋の前に11名の日本兵士の順番待ちの写真には唖然とさせられる。

最後のコーナーには “屠殺存者歴史的見証人” 中国人600名のカラー写真が大きく展示され証人として掲載されている。、以前、訪れた時、表示された遺蹟の通路前を 「ブツブツ独りごとを言いなが徘徊していた老婦がいた。」当時の係員の話では、老婦が幼少の頃、旧日本兵に因って両親、兄弟を目前で殺害され、そのショックで無能な人間となり果て、毎日この資料館に来るのだと言う。
                                 


盧溝橋事件で日中戦争が勃発する前から、すでに日本の中国侵略は始まっていたが、蒋介石の反共戦線による同盟の申し出を近衛内閣時代に断り、蒋介石が共産党と抗日統一戦線を結成するのを許して、無計画に大陸政策を続けた結果が、「戦争完遂のための」太平洋戦争の勃発と、45年の惨めな無条件降伏となる。

中国侵略こそが日本の敗戦の原因・発端であり、日本軍部の愚かさのすべてで南京大虐殺殉難同胞記念館と原爆資料館を両者併せ展示してこそ,戦争の悲惨さを訴える最善の方法と何時も思う。

現在,平和国家日本は不死鳥の如く蘇る。不景気と言いながらも世界に冠たる経済大国,戦地で藻屑と消えた人達や罪のない中国人民の戦争犠牲者を忘れてはならない。

経済の発展に邁進し活力が漲る中国,何処かに置き忘れられたと錯覚する静寂な資料館に見学者は少ない。然し何か事がある度に日本に突きつけられる,この戦争の歴史事実は消え去ることは無い。

13年前の老婦は今は見当たらない
      
                                      

2004/02/13



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