中国歴史紀行>1>司馬遷祠墓
    司馬祠墓  

司馬遷祠は陝西省韓城県。韓城は陝西省の東端。山西省と隣り合う位置にあった。西安発韓城まで快速で約5時間。切符は同行の中国の友人が前もって入手。宿泊は韓城賓館。明朝タクシーで長年の憧れ「漢太子司馬遷祠墓」に到着

小高い丘に在る。。漢城市芝川鎮の南原にあり、竜門の南方40km位置し、東は梁山の東麓、西は芝水に望み、きわめて壮麗。晋の時代「309」の創建とある。4層の高台で華麗、石段がずうっと連なり、かなりきつい。前の3つの台は宋代の建立。 最後の台が宋・元代に磚で築いた司馬遷の衣冠冢 「前145か前135ー?」 代々の名士の題詠が多い。文献によると司馬遷の故里は此処の近く「夏陽」と言う。
                       
入り口の案内板には「墓地」は祠の裏側とある。早速、見学、墓は直径約20メートル位の円形の真ん中に一本の大樹が生えてあった。

司馬遷の子孫に司馬を名のる者はいない。司馬遷は武帝の怒りを買い宮刑に処せられたあと、一族に難が及ぶのを怖れ.自らの姓の司馬の司に棒一本を加えて、長男を ”同 ”と改姓させた。次男には馬にニスイを加え ”馮”とした。現在、毎年の清明節に司馬遷の墓に詣でるのは、”同”と”馮”の二姓だけである、と言う。

(補遺)司馬遷(前145〜?)名著『史記』の著者。「歴史の父」とまで言われている大歴史家。太史令司馬談の子。十歳で「春秋左氏伝」「国語」等の古文を暗誦し二十歳の時、父の命をうけて長江や准河、各地の伝統や風俗を探訪し戦国諸候の記録を収集し、また、齊・魯の間を巡り孔子の遺風に接している。 父・司馬談は自ら果たせなかった修史の業を子・司馬遷に託し死去した。  
天漢二年(前99年)部下5000を率いて匈奴に出陣した李陵が漢の西北の要塞である居延で匈奴の単于の大軍と遭遇。刀折れ矢つきるまで激戦し、 辛うじて命が助かった者、480人ほど、李陵は武運拙く降参してしまう。ところが、この李陵の行動が問題化てて、李陵の一族を滅亡すべきと朝廷で論議されることとなった。
                    
この時、ただ一人敢然と李陵の忠節と勇敢ぶりを賞賛し、弁論を展開したのが司馬遷。「私は李陵の人となりを観察するに、生まれつきの奇士でありました。李陵には国士の風が有ると私は考えていました。人臣たる者、万死に出でて、一生の計を顧みず、公家の難に赴くことは、これだけでも奇と申さなければなりません。李陵が一度失敗したからと言って、都にいて一身の安全を量り、妻子を安泰させている官吏どもが、その非を責めて罪に陥れようとするのは、小生の私情真に忍びえぬ悲しみであります。」

然し、この弁明は武帝の憤怒をかい、遂に『宮刑』に処せられる。司馬遷は腐刑とも宮刑とも言う、耳にするだけでもケガワラシイ、性格までも変わるとされた刑罰を受けた後も身に凍みる恥ずかしさ、苦しさ、憤りを噛みしめて生き続けた。なぜか?父・司馬談の遺言を果たさずしては、死んでも死にきれない思いだった。刑が終ると中書令に就く。当時の司馬遷の心情と史記執筆への執念は、友人任安へ報じる書簡から汲み取れる。 
                           

李陵は生きながら匈奴に降り、家名を落し、私は宮刑に下され、重ね重ね天下の笑い者と成り果てました。悲しいかな、悲しいかな。・・・・まして、進退きわまった私がどうして自害せぬわけがありましょうぞ。隠忍して生き長らえ、糞土の中に幽せられて敢えて辞せぬゆえんは、自己の願いが果たされぬのを恨み、このまま埋もれて、文章が後世に表われぬのを、鄙ずるからであります。

司馬遷は武帝が崩じた後、次の昭帝在位の初め頃、『史記』を完成させると言う偉業を成就させた。六十歳前後で死去した、とある。


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