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長江三峡は西の起点は奉節・白帝城から東は湖北省宜昌の南津関まで全長193`あります。瞿塘峡。巫山。西陵峡。までとなっています。三峡ダムが完成し蓄水すると峡谷外の主な観光地『白帝城・張飛廟・石宝寨・漢闕・鬼城・白鶴梁・』峡谷内の『古桟道・懸崖石刻・屈原祠・王昭君の故里』等、部分的、或いは全部水没するようになります。

◆ 三峡ダム関連ニュース  ◆
☆ 2002年・塞き止め。
☆ 2003年・一部稼動。水位135メートルに上昇。
☆ 2009年・完成予定。水位175メートルに上昇。

と言うのでダム建設以来、二度訪れました。一度は重慶から宜昌までの三峡下り。二度目は97宜昌から重慶までの三峡上り。三峡上り、の方が切符の手配が簡単、乗客数も少なく、ユッタリ気分でした。今回の主な目的は ”古桟道” ”懸崖に掛かる石棺”の確認でした。武漢で宿泊。武漢では”武昌魚”が有名、この地方でしか取れない魚で珍味である上に、骨に特徴があります。

曽って毛沢東が好んで食ったことで有名です。日本で魚を食べる習慣が身についてる日本人にもさすが珍味でした。宜昌を朝、11時に出航。西陵峡・巫峡・小三峡・瞿塘峡に向います。

第一関門は”葛洲はダム”です。『葛洲ハ閘門』宜昌市から西方5kmにあります。”高低の差の大きな水面で船舶を昇降させる装置”その差、高低は24b。第一の驚きでした。宜昌市街から10`の上流・西陵峡に”三游洞”があり唐時代に白居易・元微之・白行簡(白居易の弟)の三人が訪れ詩作をした処からこの名がついたと伝えられています。

宋代には蘇洵・蘇轍・蘇軾・の父子三人が訪れてからは”後三游”と言い”三游洞”には多くの歴代詩書、石刻があります.西陵峡で最も有名な所は”王昭君の故里” 香渓鎮から支流を上った興山の麓にあります。

王昭君が後宮に入る前に流域に住み、いつも水浴びしたり、洗い物をしていて、その芳香が周囲にあふれ、香渓と命名したと伝えられています。香渓鎮流域は船上から赤褐色のレンガ作りの住宅建物が見られます。

三峡ダムが完成すると王昭君の像も故居も永遠に水没します。西陵峡の峡谷部分は42kmで浅瀬が多く急流が渦巻き難所の一つ、難破船も散見されます上流の岸辺で船中泊。翌朝、船舶の心地好いエンジンの音で起床。4階建てに相当する”公主輪”号は”巫峡”に入って行きます。「巫峡」は巴東縣の官渡口から巫山縣東部の大寧河口、全長40km。巫山十二峰が見えてきました。

南北両岸に並び山河の秀麗さと風景の華麗さは三峡第一と賞賛され絶景です。巫峡十二峰の内、三つの峰は船上では見えません。青石鎮と言う町の後山に沿い徒歩で3時間の所で見ることができるそうです。南岸の神女峰の麓に神女が「禹」に書を授けたと伝えられる”授書台”があります

神女峰を過ぎ暫らくして懸け棺が見えてきました。双眼鏡から見るのが精一杯。カメラに収める事が出来ず残念。 北岸には集仙峰の麓の岩壁に諸葛亮筆と伝えられる『重崖畳嶂巫峡』の六字が薄く眼を凝らし確認出来ます。”公主輪”号客船は岸辺に停泊し小舟に乗り換え、いよいよ ”小三峡”へ。”大寧河”はもと”巫峡”と言います。

四川・陜西・湖北・三省の省境にまたがる大巴山の南麓に源を発し巫渓から巫峡120km、長江に注いでいます。小舟は船頭二人によって大寧河を上って行きます。河道が蜿蜒と延び群山が折り重なり連綿と連なり独特の景観をなします。川の流れは激しく、水の色は紺碧。突然、小舟の乗客の一人が叫び声を出し指をさします。”野猿です!。

古来、猿声は、旅愁をかきたて旅人を悲しませる悲哀の象徴としてうたわれました。三峡の猿声には悲しい物語があります。晉の桓温が蜀(四川省)に攻め入ろうと三峡にさしかかった時、部隊の兵士で子猿を捕まえた者がいました。母猿は岸づたいに悲しがな声をあげ、百里あまり行っても立ち去らず、とうとう船に飛び込み、そのまま息絶えてしまいました。

母猿の腹を裂いて調べて見ると、腹わたは、づたづたにちぎれていました。桓温公はこれを聞いて立腹し、その兵士を即刻、免職させるように命じたと言う故事があります。

観光客集約の為、放逐したと言う野暮な推測は今、風流人は聞き流します。李白と同じように感動します。小三峡は北から龍門峡・双龍峡・双龍上峡からなり全長約50km西岸の絶壁に”桟道の遺構”が現存していました。蜀の桟道です。”正に蜀道の難きは青天に上るよりも難し”を感じさせます。上流の巫峡の檀木坪まで160km余り連なると言うことです。

中国最長の桟道の遺構と伝えられているそうです。また此でも規模の大きな”懸け棺”を確認。  することができました。感激です『岩棺群』幾つもの石棺・木棺が岸壁に差し込み埋葬の形で岸壁上に挿むように現存しています。どのような地位にあった人が納められたのでしょう。


                

                    小三峡

興味は尽きません。「夏期は渇水期間が長く巫渓までは行くことが出来ません、」と船頭さんの話で途中、小さな町で昼食しました。小三峡の記念にと川辺で小さな形の”小石”を拾いました。何千年の風雪に磨耗された”三峡石”は模様が有るものが上等で、小鳥の羽ね模様、白と黒の幾何学模様、さまざまで地元の住人も収入源になると捜し求めていました。帰路、水流が比較的に穏かな場所に来た所に珍しいものを発見。

早速、舳先の船頭さんの居る場所に移動しました。彼等の言葉は紛れもない普通話でした。   聞くとやはり”窯洞”(ヤオドン)です。山西省・陜西省・甘粛省など黄土高原地域に見られる山崖に掘った洞穴式住宅です。以外な発見です電線も通じてます。舳先で大寧河口まで船頭さんと雑談。一人は29歳、他の一人 は、27歳、褐色で筋肉隆々として、それぞれ結婚をし2人の子供もいる。船引きの仕事は観光客がある時、会社から連絡があり仕事にありつける。日常は巫渓近くの農民として暮らし此処の生活が自分達に適していると屈託の無い笑顔、因みに彼等の給料は400元一般社会では普通800元。
(10/06/2000の中国情報局通信によれば北京市全体労働者の一ヶ月給料は1,220元。前年比20%アップ、と報じています)大寧河口に到着、下船です。
   

                

                         小三峡

”楽しい舟旅をありがとう”礼を言い、彼等の手掌に僅かばかりの”小費”を握らせました。 ”家で待ってる子供達に何か買って帰ってください”私達は停泊中の客船に向います。振り向けば・・・。こちらに手を振り彼等の笑顔は一日の労働の汗で光っていました。

巴東縣は湖北省と四川省の境界に近く、昔は”信陵”と呼ばれていました。湖北省西部の重要な町です。人口約50萬人、この町もダムの施行により巴東全縣は水浸しになるそうです。山の上に新しい巴東県庁の所在地を建造中でした。

瞿塘峡に入って行きました、大渓鎮から白帝城までを ”瞿塘峡”と呼び全長33`、峡谷部分は8`。両岸は群山峻嶺が雲をついて聳え、刀で切り取ったような絶壁が連なります。

白居易は 「夜瞿塘峡に入る」で 「岸は双屏の合するに似て天は匹練の開くが如し」と詠じています。船中泊。 『白帝城』が見えて来ました、公孫述(?−36)の創建と伝えられ『殿前の井戸から白龍がでた』と言う伝承により25年に白帝と改称しました。劉備玄徳が臨終に際して後事を諸葛孔明に託した事で有名な白帝城。

李白の「早発白帝城」  ( 早に白帝城を発す)
朝に辞す白帝彩雲の間。千里の江陵一日に還る。両岸の猿声啼いて住まざるに。 軽舟已に過ぐ万重の山。この詩はこの場所を描いたもので有名です。三峡工事が完成したら、白帝城は一つの小島になります。

「万県」に到着。万県は四川省東部・湖北省・湖南省・陜西省南部・貴州省東部の物産の集散地になっています。人口125万人、長い坂道を上ったら市街地に出ました。雑踏の中、露店で『シシカバブ』売りの若夫婦と雑談。10円で食べきれない程、味も量も満足!暫らくこの街の人混みの中を散策。帰路、元の長い坂道を降りて行く、相変わらず路傍で物乞いが一メートル間隔で坐っています。観光地のお決まり風景。閉口します。乗船出航後、前方に『石宝寨』が見えて来ました。

高さ56メートルで川辺の平地に突出して四壁は削ったような 巨大の岩石で建造して階層は13階のようです。世界の八大珍奇建築だと言うことです。

『鬼城』に到着は夕刻間じか。携帯用の懐中電灯(百円ライター位の大きさ)をポケットに入れて出発。この携帯懐中ライトは重宝します。観覧時間も少ないのでリフトで天下名山”鬼城”へ、山門を入ると3つの小さな石橋がある、この橋を三歩で渡れと中国人が言う、三歩で渡れなければ来世に地獄に落ちる。と面白いことを言う。掲示板には橋の由来が書いてある。橋の名は「奈何橋」。


                     

                        鬼城山門入り口

伝説によれば「愛人がこの橋であなたを三年待っていました」??。「不倫の戒」とみた。 「愛人」は、愛人では有りません。中国語で”妻” ”夫”のことです。 しかし世界共通、中国も不倫が社会問題になっているそうです。「奈何橋」をこの橋をイカンセン。とも読める。動物の顔をした巨大な鬼さん。人間を裸にし押さえつけて食らおうとしている鬼さん。

便々腹を出し笑っている鬼さん。 正に鬼さんのオンパレード。その数も百や二百の半端じゃない。この「鬼城」も山門近くまで水没します。と朱書きで標しがしてありました。船中3泊4日。明朝は重慶の ”朝天門”に到着予定。

翌朝、空が靄がかかった感じの重慶市が見えて来ました。靄でなくスモッグと後で解る。『坂道と橋の多い重慶。』『自転車に無縁な重慶。』 酸性雨と、スモッグが気掛かりです。朝天門波止場では以前、日本語を教えていた重慶某大学の女子学生が待っているはずです。


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