中国歴史紀行  (112)    関帝廟常平関帝廟
                    解州西関の関帝廟

山西省運城市解州鎮西関にある。解州鎮東南10kmの常平村が、三国時代の蜀の関羽の出身地と伝える。此処は全国の関羽を祭る廟の祖にあたり、創建は随の開皇9年(589年)。宋・明代に拡張と改修を重ねた。しかし、清の康煕41年(1702年)に火災で焼失、十年余りかけて修復した。

関羽廟に期待して入る。関羽が関帝と呼ばれるのは、北宋以来、歴史の支配者によって神格化されたと言う

関帝廟を入ると左壁に9龍の壁に気ずく。一部分顔が欠落。文革がこの地にも禍を起こしたもの。中国では到る所の文化財が文化大革命の被害に遭い、その痕跡の凄まじさに驚愕する場面が多い。

          
                   
現存する廟は南向きで園内は柏の老樹が生い茂る、季節の花が競うあう。南北2部に分かれ、南部は決義園で・周囲は桃林で劉備玄徳と関羽・張飛の3人が桃園で盟を結んだと言う趣向を凝らしていた。

北側は正廟で、前後両院に分かれる。前後両院はそれぞれ独自の院落をなす。厳正な配置と整った規模で、春秋楼と嵩寧殿がもっとも精緻である。

嵩寧殿は清代の1718年に創建された、その名は宋の徽宗が関羽を嵩寧真君に封じたことに由来すると伝える。春秋殿はいまの主殿、清代の1870年の改築で、階上の龕で関羽が横たわり『春秋』を読んでいる塑像がある。

関帝廟では、主神の関羽を正面に、その左には子の関平が荊州の牧の印を捧げ、右には武将の周倉が関羽愛用の青龍偃月刀を捧げて立っている。三人が荊州で討ち死にしたことが小説・講談・芝居でなっている。然し,周倉のことは、『三国志』には周倉の名はない。『三国志演義』には関羽のボディガードとして周倉が書かれている。関羽が殺された時、附近の麦城にいて、これを聞き、自ら首を刎ねて死んだとなる。


常平関帝廟
関帝祖祠と言う。運城市南25kmにある。随代の創建伝えるfが、現存する建物は清代の建造物とされている。ここは関羽出身で、地元の人たちがその徳を慕って旧居に祠を建てて祭った。柏の老樹が天を突いて聳える、堂宇が雄荘且つ壮麗。廟内には山門・后門・享殿・関帝殿・娘娘(ニャンニャン)殿などが中軸線上に配置される。

境内の東隅にある八角七層の磚塔は、関羽の両親を祭るために金代の大定17年(1177年)に建立したと言う。廟の南、柏樹の下に関羽の祖先の墓があり、多数の石碑が建つていた。

                   
                     関羽の両親を祭る磚塔



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