中国歴史紀行  (113 )       蒲津関鉄牛

古来「暴れ龍」と言われてきた「黄河」の様子が、どうも変だ、水量激減と言う噂は聞いていた、特に上流が厳しいらしい。蒲津関の側の黄河を観て頷けた。河の中筋まで干上がっている。葦がボウボウと生えている。

蒲津渡は黄河の著名な古渡口で春秋戦国時代から漢唐を経て元明時代に至り秦晋の重要な交通地域であった。古来、交通路以上に戦略的にも重要であった。蒲津関は黄河を渡るため、「浮き橋」が掛けられた。繋留のため鎖が必要となる。唐代には浮き橋は整備されていた、その際、橋のたもとの置かれたのが「鉄製の牛」であった。{1222年}金・元の蒲州城争奪により蒲津橋は戦火により毀没した。

元代以後、黄河の氾濫で河道は絶えず拓寛し河橋は再び没し通用の方法も無く三十年河東、河西に鉄牛を泥沙に深く埋めた。1989年遺跡進行整理発掘中 完整した開元鉄牛、鉄人など遺物を発掘した。

                                                                           
唐の開元12年(724年)鋳造の鉄牛4尊。鉄人4個。鉄山2個。鉄トン四個。七星鉄柱一組7個。明代防護石堤約70m。明正徳16年(1521年)記事碑一個など。蒲津の浮橋が建築されたのは紀元541年〜1911年と伝える。鉄牛の高さ1,5m、長さ3,3m腹下に錨鉄柱6根があり軽い物で55d、重い物で75d。鉄牛の傍に各々鉄人が牽引し、分別は維吾尓、蒙、蔵、漢の四ケ族が違い造型は精美であった。

蒲津渡遺址博物館は山西省永済市古蒲州西門口、黄河岸東側にある。蒲津渡遺址博物館には唐・宋・明時代の文物が展示され、国家級重点文化保護に属している。

                      

とも綱として従来は船を横附け鉄牛の足に掛けると思われてきた。発掘によって、鉄の心棒が後ろ足の横に突き出していることが判明したと言う。

古来、黄河自体大きく屈曲し河道を変えた場所が多い、激流を迸るさまが黄河であり「暴れ龍」と言われる所以であった。「長江」のように」蕩々と流れるさまではなかった。今、黄河上流地域は想像以上の水量不足。無用となった鉄牛は檻に入れられいた。

     
  当時、船を横附けして停泊目的の爲の鉄牛。用を為さなくなって、鉄屑業者に渡される。



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