中国歴史紀行  (116)     三門峡ダム

黄河は中華民族の発祥地とされ、華夏儿女(中国の古称)の母親の河と伝える。幾千年來、人々は此処で繁盛してきた。然し黄河は泥沙量が多く下流に行くほど、河床は年を追うごとに堆畳し、世界で≪地上懸河≫と言われている。河堤は屡々決壊し両岸の人々は貴重な生命・財産など危害を受けてきた。

歴史上≪害河≫とも言われてきた、史書には黄河下流で3000年中、氾濫発生は1500余回、河筋を変えたのが26回。近代1855年〜1911年の57年間38年水害を発生し、平均2,3年に一度決壊していると伝わる。

1933年の洪水、決壊は50余処、被害を受けた人口が364万余人、死亡1・8万人。黄河決壊と河筋を変え、北は天津から南は江准に到り25万平方キロの土地、8000万人の生命と財産などの危害を受けた。

黄河は北の中条山脈と南のコウ山山脈に挿まれた渓谷を東流する。陜県から東20kmの地域は河幅が300〜400mと狭まり、急流となる。この河の中に鬼・神。二つの石島が屹立し流れを三分している。北側は舟が通ることが出来るので≪人門≫と称し、中央は無事に通るかどうか不明、予測がつかないので≪神門≫と称し、南側は危険で通行不能なので≪鬼門≫と称して三門峡と言う。

1949年8月、黄河委員会が「用淹没換取庫容」三門峡に提出、1954年11月国家計画委員会は国務院幹部指導人を迎え「ソ連専門科の黄河総合利用規格」の報告を聞いた。1956年3月開工。1957年4月、ソ連技術導入のもとダム建設工事が開始された。

1960年9月、中国の大プロジェクトが完成。高さ106m・長さ875m。然し、黄河の水流中、膨大な土泥の量を計算に入れなかったので失敗。1965年に改築し、洪水と土泥の堆積を防ぎ灌漑と発電の三門峡ダム工程完成。

写真左・中央北側(左)梳妝台。中央を練丹炉、又の名を張公島。南側(右)中流砥柱。と言う。
 
        
                   

                      ダム放水路



                        ダムの近く 水の神様・禹公の銅像

最近、黄河上流の水量不足が問題視されている。一月〜五月は放水。 六月〜九月は土泥放出。十月〜十二月は貯水期間。下流は各支流から黄河に水流が入ってくるがダム上流は水不足で深刻だ。長江の山峡にダムが発案されたのは今に始まった事では無い。発案者は孫中山と言う。

汚泥が堆積する処置は此処、三門峡ダム工程完成の失敗を生かすと言う。然し汚染問題も蓄積している況して中国は、汚水の垂れ流し。発泡スチールロール等の焼却炉も皆無。現在「白い汚染」も深刻。即ちビニールの使い捨て。農道の両サイドは「白い発泡スチール」使い捨てで蜿蜒と続く。発泡スチールロールは大地に帰納するには500年の歳月を要すと言はれている。

○南水北調。南の水を北へと計画中。
@チベットや四川省の西方山岳地帯の水を黄河本支流へ
A長江最大の漢江の水を武漢から北京へ
B南京近辺の長江の水を天津へ

他に○西電東送。○西気東輸。○青蔵鉄路。中国の大プロジェクトは続く。



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