中国歴史紀行  (117)

普救寺

山西省永済県の県城西北12kmの土邱にある。古蒲州と西廂村に隣接する。高所に位置し、松柏に取り囲まれ、西は激流が逆巻く黄河の湾曲点に臨む。

我々は普救寺麓で昼食を摂るため数軒の食堂を覗いた。その中から「刀削面」専門店らしき食堂に入り食した、アッサリ味の日本人好み、充分堪能する。食後、普救寺に目指し階段を上る、勾配が、かなり急な階段が続く。

普救寺は周の武則天(684年〜705年)の時の創建。唐代の詩人・元愼(779年〜831年)の著した伝奇小説『鴬鴬伝』にも登場する。さらに元雑劇の『西廂記』も普救寺に材を取ったもの。鴬鴬を懐かしみ、別名を「鴬鴬塔」と呼ぶとも言う。

五代の後漢がこの地の反乱を鎮圧しようと蒲州城を包囲し、1年以上に及んだ。住民の苦悩は甚だしかった。そこで、当寺の僧を呼んで相談をすると、「将軍、善心を発せば城即ち克つ」と答えた。

ただちに矢を折って誓いをたてたところ、翌日打ち破り、城内の民衆を救うことが出来た。それで、普救寺と改称したと伝える。

簡介によれば、明の嘉靖34年(1555年)地震で倒壊し、のちに再建。1920年に火災で焼失。現在は遺構と石坊・三大士洞・舎利塔が残る。舎利塔は方形3層・高さ約50m、上にいくほど細くなり、唐代の様式を留めていた。

『西廂記』張君瑞は父母を亡くし、科挙を受けるため上京中、普救寺に宿泊、そこで一人の美女をみかけ、一目で恋の虜になった。名を鴬鴬と言う、亡き崔相国の柩と共に故郷に帰る途中だった。張君瑞は近づく機会を窺が厳しい家風は隙もない。

そんな時、鴬鴬の噂を聞きつけて孫飛虎が奪い取って我が妻にしょうと五千人の兵を率いて寺を取り囲む。驚く鴬鴬の母親はこの急場を救ってくれた方に鴬鴬を差し上げますと約束した。

喜んで名乗り出た張君瑞、孫飛虎に鴬鴬が喪服を脱ぐまで、と3日の猶予を願う、その隙に義兄杜社確将軍に救いを求めた、聞きつけた将軍は賊軍をけちらかし君瑞と鴬鴬の祝福しつつ帰っていく

         

翌日、侍女が瑞君を呼びに来た。結婚の宴と喜んだが意外にも奥方は鴬鴬に「兄さまにお酒をつぎ」と言うのみ。実は鴬鴬には奥方の甥、鄭恒と言う許婚者がいたため、約束をホゴにしたいと言う。君瑞は腹を立てたが致し方ない、すごすごと引き下がる君瑞。これよりどっと病の床につてしまう。

君瑞が病と聞いた鴬鴬は心配して紅娘に見舞いに行かせた。紅娘から鴬鴬にも自分にも気のあることを知った君瑞は早速恋文を紅娘に託した。鴬鴬は君瑞に一通の返事を託した。

『月を待つ西廂の下。風を迎え戸半ば開く。墻を隔てて花の影動く。疑うらくは玉人の来るかと』とある、君瑞は忍んで来いとの謎と解した。その夜る君瑞は忍んで行くと、意外にも鴬鴬は手厳しく罵る、絶望した君瑞は重態に!君瑞重態の知らせを聞いた鴬鴬はためらう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

1987年5月13日、普救寺修復工事中、大鐘楼基址から金代の詩喝一魂が土出された。名を曰く『普救寺鴬鴬居』又、七言律詩。字体は清秀で行書。記述は『西廂記』故事で貴重な実証とされている。

※以来、今日まで『西廂記』は中国戯曲の最大傑作の評価はゆるがない。



参考資料
普救寺。山西経済出版社
山西旅遊風景名勝叢書。
普救寺簡介。
『西廂記』。王実甫、訳文



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