中国歴史紀行  (118)



函谷関は二箇所あると聞き多少の驚きを感じた。一箇所は古函谷関。一名を「秦関」と言う。もう一箇所は「漢関」と言い、今回参觀したのが古函谷漢、「秦関」。河南省霊宝市北15kmの王だ(土+朶)村。三門峡より約7,5kmの所 “長安古道”が黄河の岸辺にピタッと寄る。因って「関は峡谷中にあり、深険、函の如く」とその名を得る。

中国建置もっとも早い時期の雄関要塞の一つ。始まりは春秋戦国時代で、東は洛陽に、西は長安の咽喉仏に到る。古來より兵家必争の地であり、古代中原の地と西北地区文化との中心であった。又、経済交流の需要地点でもあった。

春秋時代、関令の尹喜が高台にいると一筋の瑞祥の気が東から来るのが見えた、これが「老子」だった。尹喜の懇請により書き残したのが現在伝わる≪老子道徳経≫五千言であると言う。城門を通ると急な勾配の階段が現われる。

曲折の階段の頂上に老子ゆかりの道場だ。いろいろな品物がある。定かでない。老子の塑像に礼拝。突然時を告げる鶏の鳴き声に驚く、商業用に鶏の鳴き声を「テープ」で流す仕組みだと解かる。

函谷関と言えば孟嘗君。食客三千人もいたと伝えられる孟嘗君は何時役立つか解からない食客達に食べさせ続ける、食客達は何時かと活躍の機会を待つ。秦の昭王は孟嘗君を秦に招く「彼は斉の為にしか働かない」と臣下に言われ、孟嘗君を殺そうと考えた。

孟嘗君は昭王の愛姫に頼む、愛姫は「あなたがお持ちの白狐の脇の下の毛だけで造った裘を私にくれたなら」と言う。天下に二つとない物。しかも已に昭王に献上した。

食客の一人が「私が昭王から盗んで参りましょう」と一人の食客が言う、「狗盗」で白狐の裘を盗み出し、これを愛姫に献じ、愛姫は昭王に孟嘗君を許し斉に帰還させることを承知させた。急いで国境に向う孟嘗君一行だが、関所は一番鶏が鳴かないので門は閉ざされている。

昭王の追っ手が迫って来た。この時、食客の一人の「物真似の達人」がニワトリの声を発すると、あたりのニワトリも一斉に呼応し、関所の門は開き、孟嘗君は無事に帰還できた。

                

                  再建された函谷関

老子は実在の人間でない,日本の或る学者は言う.中国では実在した人物として扱われている.今後の歴史研究に待つ.然し『史記』を信じる分けではないが通説では『史記』の老子伝で伝記はすっきりし無い.が『史記』には老子は楚の苦県厲郷曲仁里の人で姓は李氏,名は耳.字は伯陽と言う.おくり名は耼(たん).孔子は周に行って老子に礼について尋ねた.面会を終わって出てきた孔子に弟子が老子はどんな人かと尋ねたら孔子は自分には及ばない龍のような人だと答えている.

「自隠無名」を自分の学問にした.周に永くいたが周が衰えたので関=(函谷関とも言う)に行き関令(関所の役人)の尹喜の請いによって道徳のことを書いた二編上下,後世で言う.『道徳経』を残し,去った,何処で死んだか解からない.



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