中国歴史紀行   (119)

戚夫人墓
 

今回、図らずも咸陽博物館長李先生とお会いする御縁を頂き私の希望する各地をご案内して頂いた。李先生は当地出身、考古学者らしく要領を得た説明。しかも土地鑑定よろしく運転手に道順を指図し便宜を計られた。

≪遊遍陜西≫<500景点>中文を紐解くと戚夫人の墓は長陵以南に在りと伝える。即今、咸陽市秦都区肖家村郷柏家嘴村の大漢墓。私は咸陽博物館長同行のもとで戚夫人の墓を尋ねた。時代が時代だけに奈何せん、現地は今、農地、「文化革命以后、整備され全部農地となる」博物館長の説明。この現場は中国歴史家専門の人々の研究結果、又中国で発表された各資料のもと疑う余地はなさそうだと感じた。

『戚夫人墓跡』戚夫人は山東省定陶の人。劉邦が楚・漢の戦争中にその妾となる。戚姫と称した。彼女は歌舞を能くし演じて唱う得意なものは≪出塞≫≪入塞≫と≪望帰≫舞う姿は人々を感動させたと言う。彼女は劉邦の寵愛を受け、常に劉邦の征戦に随がっていた。男の子を産み、名を「如意」と言う。

劉邦は如意を非常に可愛がり、太氏劉盈を廃し如意を太氏にしようとまで思ったが、文武大臣達に反対され終に実現しなかった、戚姫は悲しみ泣きながら、高祖の奈何とも無しの歌≪鴻鴣高く飛来し、一たび千里を挙げる、羽翹以って就く、四海横絶す、四海横絶す、当に奈何せん、いぐるみが有ると雖も尚ほ安んずる所に施す≫と舞うのだった。劉邦が皇帝に成って以後、戚姫を封じて夫人と為した。

劉邦の死後、呂后が大権を握る。まず手がけたのは、夫の愛した女の復讐であった。高祖には数人の夫人がいたが、晩年は特に戚夫人を寵愛し、高祖は次第に古女房を敬遠するようになっていた。呂后は戚夫人を捕らえて後宮の牢に監禁した。

 春歌    戚夫人
子為王母為虜。   子は王と為す 母は虜と為る
終日春薄暮。     終日 春薄の暮
常與死為伍。     常に死と伍と為す
相離三千里。     相い離る 三千里
當誰使告女。     當に誰か使わし女に告すべし
  (中国歴代女子詩集・注・呂氏老狐可恨)

『史記・呂后本紀』は伝える。手足を切断し、眼をえぐり、耳を焼き切り、薬でノドをつぶした。動けず見えず聞こえず、口も利けない状態で、戚夫人はしばらく生きていた。便所に入れて「人ブタ」と言わせた。呂后は我が子の孝恵帝を呼び「人ブタ」を見せた。気の弱い帝はこれを見て慟哭し寝付いてしまい、いらい帝は政務を観もせず数年で死んでしまった。


                  
                   戚夫人墓跡とされる地処

 参考文献・ 遊遍陝西・五百景点・陝西旅遊出阪社。


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