中国歴史紀行 (121)   

漢景帝劉啓陽陵

 劉啓(公元前188年〜前141年)、文帝と竇皇后の子。在位は、公元前156年〜前141年。文帝の死後、太子劉啓が帝位についた。景帝劉啓は父(文帝)の政策を継承した、それは、『尊奉黄老之術』。老子を読み尊重することであった。

竇太后の子で景帝の弟である梁王劉武は母の寵愛を一身に受けて傲慢であった。劉武は兄である景帝に嫌われ、都に住むことを許されず寂しく死んでいった。竇太后は劉武の死を聞くと慟哭し、「帝があの子を殺したのだ。」と泣き止まなかったと伝える。

公元153年、漢景帝は当時の弋陽県修築寿陵にいた、これから『陽陵』と名付けた。

陽陵は咸陽原上に9個の帝陵のうち最も東面に位置する。現在咸陽市秦都区肖家村郷張家湾村にある。陵区の範囲は、北に向かって陽県高圧郷に伸び、東に向かい高陵県馬家湾郷に至る。

陽陵の主な工程は景帝中元4年(公元前146年)秋に完成した。底部と頂部平面は方形に近く、底部辺の長さ170m、頂部辺の長さが50m。封土の高さ31m。

景帝陵の東北450mの所に一個の陵がある。畢{シ+元}が此処に碑を建てる。碑名は『漢恵帝安陵』とある。ここで議論紛々!喧喧轟々、此の陵は決して安陵に非ず、孝景王皇后の陵だと言う。畢氏の勘違いと相成った。此の陵墓は封土形成は景帝陵とよく似て同じくらい、規模が些か小さい。

景帝陵と王皇后陵は各一座陵園に設置されていた、平面均等に方形と為している。景帝陵の陵園の辺長は410m陵園の四面中央に各一門を辟く。


             
 19/12/2002
  参考文献・ 遊遍陝西・五百景点・陝西旅遊出阪社。


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