中国歴史紀行  (122 )      

 曹参墓

平陽侯曹参は沛の人である。字を敬伯。秦の時は沛県の獄掾(牢屋の下役人)に任じていた。秦末の農民蜂起とその以后の楚・漢の戦争中、曹参は劉邦の一員で猛将軍と知られ、南征北戦・攻城掠地。≪身に七十の大きな傷が裂ける≫と伝える程、戦功は最も多く漢王朝の基礎を築いた。

西漢王朝建立后、曹参は平陽侯に封じられた建国初期、彼は高祖平定に協力した。恵帝の2年。蕭何死後、彼は丞相に出任した。彼は政務もとらず,毎日酒びたりで,いさめに来るものに,むりやり酒を飲ませて酔わせ,ぐちさえ与えなかった。恵帝は曹参を呼び付けて問いただした。

曹参は,「高祖と蕭何の定めた法令によって,天下は安定しています。私達はその法令に従い,失策を犯さぬよう心がけていれば,それで良いのです。」 と答える。

曹参がはじめ微賎であった時には、蕭何と親密であった、将相となると間隙を生じた。蕭何が死にのぞんで推挙したのは曹参ただ一人だった。『挙事無所変更、壱遵何之約束』曹参は蕭何にかわって漢の相国になると、一事として変更する所なく、ひたすら蕭何が定めた規約にしたがった。

因みに平陽侯曹参、亡き後はその子、曹(そうちゅつ)が平陽侯を継ぎ、息子の曹奇が平陽

侯を継いだ。曹奇の息子の曹時が平陽侯を継ぐ。曹時は武帝の姉の平陽公主と結婚、子の曹襄を生む。曹時は不治の病に罹ってしまい、離縁。平陽公主は衛青と再婚。曹参から始まる平陽侯は代々侯位を伝えた。

公元前190年、曹参は世を去り、長稜東司馬門道之北に賜葬された。蕭何陵墓の付近である。



         




        




            Copyright(C)1999-2004  by tohou AllRightsReserved
                      石九鼎の漢詩舘
                thhp://www.ccv.ne.jp/home/tohou/tabi.htm
             リンクは自由です。無断で複製・転載することを禁じます