中国歴史紀行    (123)

周勃墓


周勃・原籍河南省原武県。后に江蘇省沛県に移る。周勃の家は暮らしが貧しくて、編織(養蚕の時に使う簀子。葦を織ってつくる)で生活をしていた。時には糊口をしのぐ為、、葬式があると簫を吹き葬儀にしたがい、また材官として強弓を引いた。秦末農民蜂起後、劉邦のもとへ投奔した。建立後は赫赫と戦功を治めた。

周勃の陵墓の前で車を降りた、陵墓とまでは言えないが確かに周勃の碑が確認できる。手前で農夫婦が農作業中だった、畦道を通り農夫婦に簡単な会話を交わしアングルの好い場所でカメラに収めた。戚夫人墓跡から車で10分程度、やはり市街地の高台に鎮座していた。

周勃は性格が朴訥で剛毅、しかし誠実で戦功を自慢するような人物ではなかった。劉邦は周勃には、大事を委嘱できる、と信頼を寄せた。周勃は文事を好まず儒学者・遊説の士を召す時は、自ら東に座し賓客として待遇せず「だから、なにを言いたのだ、用件を言ってくれ」と彼等を責めた。『史記・絳侯周勃世家』に伝える。

周勃が燕を平定して帰ると、高祖は既に崩じて死に臨む前、委嘱を留めて周勃に重任を委すとしていた。そこで列侯として孝恵帝につかえた。周勃の真骨頂は高祖亡きにある。それは呂后一派との駆け引きである。しかし、周勃・陳平らは呂氏一族の排除に15年間待った。辛抱の時代であった。

周勃は軍に対して有名な命令発した『呂氏に味方して働きたい者は右袒せよ。劉氏に働きた者は左袒せよ』軍の者、全員が左の肩をあらわにした。

60年代、考古学者は長陵の陪葬墓附近で大量の陪葬坑を発見した。坑内から3000余の陶人、陶馬を土出した。70年代初期この墓の発掘調査を5年の長きに進めた。墓の規模は巨大で構築は複雑、西漢帝陵陪葬墓中を代表するものと解かった。

この陵墓は長陵東部に位置し、今咸陽市秦都区肖家村郷楊家湾村北。この地を見れば『水経注』中記載の周勃或いは周亜夫婦とするのが当然である。

         




参考資料・遊遍陝西。(陝西旅遊出版社)
中国自助遊。(山東省地図出版社)

11.20.2003



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