中国歴史紀行  (124 ) 

漢恵帝劉盈安陵


高祖劉邦は呂后との間にもうけた子、劉盈が人格貧しく自分に似ていないことから、劉盈を疎んじていた。劉邦は戚夫人の生んだ趙王を自分に似ていて可愛いと思っていた。太子劉盈を廃して趙王を改めて太子に就けたいと考えていた。しかし、周昌、張良、叔孫通らの大臣に反対され、太子を替えることは出来なかった。

劉盈は6歳の時、楚漢の戦争が終結後、太子となり、16歳で皇帝となったが、心が優しく、病弱であったため、母の呂后が朝政を執った。櫟陽で(今陝西省臨潼県武屯郷)漢王劉邦によって太子と立つ。高祖張陵は恵帝安陵と京都を取り『長安』の2字から名を得る。

恵帝劉盈安陵の墓道両サイドに、可愛い石馬・石狛犬など6・7体が参觀者を迎えてくれる。慈悲深く、心やさしい恵帝が忍ばれる。今、附近農村の悪童たちの格好の遊び場になっている。

恵帝安陵は咸陽市秦都区韓家湾郷白廟村に位置する。陵墓は封土底部と頂部は平均して長方形と為っている。底部は東西に65mと長く、南北の長さは40m。封土の高さ25m。安陵の西北270mに一墓冢がある、これは孝恵張皇后の墓であろう。

彼女は呂氏の宮廷政変失敗后北宮に『退処』を迫られた、但し皇后の名は未だ廃されず、よって死后、安陵に合葬が出来たのである。彼女は畢竟其の他の皇后と同じでなく、安陵に合葬されているが、但だ≪不起冢≫、現在、地面上の冢丘は后代に創建された。

                                                                             


墓冢の規模は小さいが、墓冢の底部と頂上部は正方形に近い。底部の東西60m。南北50m。頂部辺の長さが20m。墓冢の高さ12m。と言う。

  参考文献・ 遊遍陝西・五百景点・陝西旅遊出阪社。


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