中国歴史紀行>16>陽関故址跡

    陽 関 故 址

敦煌市の市街西方70Km。国線215.敦煌〜陽関までバスは無く、一般のタクシーで350元位 エアコン付きで500元から交渉次第。地上に漢代の文物(鉄鏃、五銖銭、石臼、陶器片など) 大量に露出しているので古董灘とも言い玉門関の陽(南)に位置するので陽関と言う。

この行程、土饅頭が無数に有る。大量の農耕車に人々が満杯乗車、(今日は)旧暦七月十五日、清明節、故人の命日、年3回墓参、と言う。日中気温が30〜40度に達するこの土地では早朝墓参を済ませると言う。途中、遥か彼方の砂漠に湖が光り輝く、長さ数`の海面とも見える、行けども行けども湖面の輝く水面は逃げる。蜃気楼と解るには暫らくの時間が経つてから。

途中岐路187国線、右に行けば玉門関、一直線に車は走る。   (6月24〜27日・2000年)3日間大洪水に遭遇、道路は破壊個所多数。迂回すること屡々。遠方に竜巻が砂塵を舞い揚げる、正に壮観。約2時間、眼前にオアシス到来。小さなオアシスの向こう側に ”陽関”が現れた。

中原と西域を結ぶ交通路の”咽喉もと”にあたり、シルクロード南路の必経の地で唐代詩人、王維の『君に勧む、更に尽くせ、一杯の酒。西のかた陽関を出ずれば、故人(朋友)無からん』     の詩を実感する。古代シルクロードの軍事通商の重要関門であった、陽関と玉門関は1979年に一般に解放された由。赤褐色の峰火台跡が焼け付く太陽にその残址は風化が進み歴史を感ぜずにはいられない。この陽関は周囲を鉄作で囲み中に入ることは出来ない。

東側は農地で、遥か遠方に壽昌城廃址があり、三面を砂丘に囲まれ、流砂が果てしなく続く。  北面の鐓鐓山に保存状態の好い漢代の烽燧が在ると言う。然し今回は時間が無く行くことが  出来なかった。東側は紅山口と言う、西側に南北に走る長さ20`余りの谷が在り、甘洌な泉が、湧き出しその両側に漢代の墓が数多く見られると伝えられ。『史記』大宛伝列に「陽関は県西六里に在り」と記されている。『両関遺址考』(中央研究院語言研究所集刊第1集)は古董灘。

漢代以来の陽関であり伏流水が流れるに相応しい場所であるが、管理する人がいないうえ、  風沙に侵蝕され、埋もれてしまったと記している。烽燧に就いて是非確かめたく陽関の管理人に、聞いた狼の糞を焼くことに就いて。 ”狼の糞は煙が真っ直ぐ昇り少々の風ではタナビクことが  無く、夜は青白い光りが輝くと伝えられる” が管理人は”言い伝えは聞いているが・・・・・・・。  「自分は見たことが無い」笑って答えた。

            陽関故址・(2000・8・14)

          


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