中国歴史紀行  (131)

朱仙鎮 岳飛廟



岳飛廟は開封市から20kmの南郊外に朱仙鎮・岳飛廟がある。中国四大名鎮首の朱仙鎮。民族英雄の廟宇、岳飛を祭祀した場所である。三大岳王の一つの朱仙鎮岳飛廟はその名を海内外に馳せている。杭州の岳飛廟と比して遜色ない。岳飛は、南宋初期の武将であり、国難に際して主戦論を唱え、和平派の秦桧にょって獄死させられた悲劇の人である。

岳飛は貧しい農家の出身で母が懐妊し産まれようとした時、一羽の大きな白鳥が高く鳴きながら室の上を飛翔した。それで『飛』と命名したと言う。字を鵬挙と言う。生まれて間もなく黄河の洪水に遭ったが一命を助かる。

岳飛が他の武人に抜きん出たのは,武勇にに秀れていたばかりでなく多少の学問が有った為であり、貧しさにめげず『春秋左氏伝』や『兵法』を学んだ。母姚氏に由って『尽忠報恩』の四字を刺青し、老母と拝別し妻と辞離し、毅然として身を抗戦外悔に投じ各地に転戦して昇進した。靖康元年[1126」宋の都開封は金軍によって陥落し徽宗、欽宗らは金軍の捕虜となり、宋は一時滅亡する。

この時、金軍に連行されず、残っていた近親は欽宗の弟の康王、哲宗の后で、のちに尼にされた孟廃后。高宗は金軍の防衛体制を固めたが、次々と破れ、杭州まで逃げた。和平の為働くと密約して、金から帰国した秦桧を高宗は招き、金との講和に望みをかけて彼を宰相とした。
                                                                 
                                               
                      
                   
秦桧と王夫人他・侍者三名、計五が檻の中で、手を後ろに縛られた実物大の像はリアリテイがある。

然し、秦桧と結んでいた金の権力者撻懶が、政変によって滅ぼされると金は政策を変えて宋へ攻撃してきた。宋の将軍達はこれを迎撃し、奮闘した、殊に岳飛の活躍は目覚しかった。秦桧は失脚した。紹興3年[1133]岳飛は江西地方を平定し、秋には『精忠岳飛』の旗を賜わる。紹興8年秦桧が政界に復帰して来る。

金では二代天子太宗が没し、十七歳の皇子煕宗が位を継いだ。若い皇帝のもと、皇族の撻懶が実権を握る。秦桧はこの撻懶と親しい間柄だった事から再び高宗に起用されて、和平交渉に当たることになった。この時、岳飛は詔に応じて、河南に敵を迎え撃ち、勢いに乗った岳飛は朱仙鎮まで兵を進め、開封まで僅か25kmの地点である、慌てた秦桧は双方の被害が大きくなれば和平の道は遠くなる。

秦桧は帝を動かして岳飛を召し帰るように図った、然し、岳飛は召に応じない、そこで帝は1日に12回も召還の『金字牌』を送った。岳飛は慟哭して叫んだ『十年之力、廃于一旦』。都に召還された将軍達に朝廷は高い官職を与えて懐柔したが、あくまで徹底抗戦を叫ぶ岳飛は邪魔となる。



               
               

                    隣りの庭で、出番を待つレリ−フ群



紹興11年12月1日、秦桧は夫人の王氏と暖炉で寛ぎ中、夫人は火箸で、何気なく灰に字を書いた。『捉虎易、縦虎難』ー「虎を捉うるは易く、縦{はなつ}は難し」売国皇帝趙構と奸臣秦桧は『莫須有』の罪名で杭州の大理寺に獄につないだ。鋳成千古奇冤!12月29日、麻縄で縊り殺された。岳飛享年39歳。古鎮の百姓家々では祭壇を設け、人々は痛哭した。

明成化14年{1478}古鎮の人々は喜び勇んで金銭を寄付し殿堂を修建した。占地70余ヘクタールの朱仙鎮岳飛廟。岳飛の英名は永遠に古鎮人民と中国全国の人々に銘記された。1986年11月21日、朱仙鎮岳飛廟は河南省人民政府公布によって省級文物保護単位となった。

参考資料
中国のルネッサンス。集英社
中国人物史100話。立風書房
朱仙鎮岳飛廟簡介。


             Copyright(C)1999-2004  by tohou AllRightsReserved
                      石九鼎の漢詩舘
                thhp://www.ccv.ne.jp/home/tohou/tabi131.htm
             リンクは自由です。無断で複製・転載することを禁じます