中国歴史紀行
                    大明寺

大明寺は唐代の高僧,鑑真和尚の寺に日中交流の源がある。2000年12月,1200年記念で大行事が行われた。鑑真和尚が住職を勤めた寺。古い城市ながら新しい街造りに建設され,古い街は古い街なりに保存される制度が行なわれている。

旧市街を守る方針は徹底して附近の郊外に新外郊外に新街地を昨る方針である,旧市街を流れている運河。市内の河と揚州,水上運搬で盛んな街である,運河は北京まで開削されている,その長さは1794km。宇宙船の飛行士が《月から運河が見えた》と証言する程,長い。

清康煕,乾隆二帝が何度も南巡維揚市,規模も順次広大,遂に揚州八大名刹の首となった。1500年,清朝の皇帝『大明』二字の扁額を嫌うと言う理由から『法乗寺』と300百年続く,1980年鑑真和尚の坐像が里帰り,佛教協会の開催にあたり『大明寺』と復古された。

大明寺の占地は五百畝,栖霊塔,鑑真記念堂,仙人旧館,西苑芳圃,五部分組分けられている。堂内の正面に《記念轉象》大字を拝し,裏側には,三蔵法師の苦難の故事を物語る彫刻が目を惹く。又,観音菩薩が海辺に1枚の葉が舟に変わり東方に行く彫り物。

《一葉渡海》の扁額がひときわ目を惹く。背景に108の佛像,側面大1番目に達磨禅宗が鎮座する,その威厳に圧倒される。毎年除夕には大明寺が挙行する《鐘声を聞き,新年を迎える》行事には外国から数千人が一堂に集る。

        
                                  
大名寺は又,日中両国友好往来の歴史の証をみることができる。盛唐の天宝二年(743)大名寺高僧鑑真に日本学問僧達の日本に佛法の要請を願いでた。又,日本の聖武天皇の要請もあり,渡航を決意。前後十年苦難の経歴,前後5度の失敗,遂に,天宝十二年(753)十月,日本に到着に成功した。

来日の時は度々の苦難から,盲目になっていた。日本に佛教徒の守るべき規律を伝え,唐招提寺を建立し,そこで没した。



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