中国歴史紀行>19>高昌故城

   高 昌 故 城

敦煌駅(柳園)19・40分発(夜行寝台車)吐魯番(トルファン)駅6・17分着。途中ハミ瓜で有名な哈蜜駅23・58分停車。柳園は2000年7月から敦煌駅と呼び名が、変わった由。吐魯番駅は此処の地区では高所位置にあり市街地まで降下して行く。

車で(市内まで50`約1時間)。トルファンの諺に、朝は綿入れを着・昼は薄着に着替え、夜はストーブを囲みスイカを喰う。温度差が激しい。此は5月〜10月が観光シーズン。

13時〜17時までお昼ね時間で休み。徹底しているのには驚き。トルファン市街東方40`に  高昌故城とアスターナ古墳、がある、一路車上高昌故城門前入口に「高昌故城簡介」の掲示板(長さ10m位縦5m位)の英語と中国語で書かれた詳しい説明板があった。これを読んで入場すれば役立つ。

驢馬車8人〜10人乗車、1人往復40元、15分で故城に到着、徒歩は炎天下かなりキツイ高昌故城は紀元前一世紀、漢王朝が車師国と言うオアシス国家があった後に、高昌壁を築き屯田兵を置いたのが高昌国の起源である。

中国内地で内乱が起こり逃れて此の土地に移住する漢民族が多くなり前涼(317〜376)の時 高昌郡が置かれた。北魏が北涼を滅ぼし、その残党が高昌に逃れ450年、車師国を滅ぼして建てたのが高昌王国。

麹氏の高昌国(513〜640年)の国都。唐朝の西州の州治、ウイグルの高昌王の王都となる。明代前期に廃されるまで1500年余り続いたと伝える。前涼代から麹氏高昌国の代に基本的な配置と建物が完成した。面積200万u。敵楼と西門の甕城が現存し、遺構が完全な形で残っている城門もある。

土をつき固めた城壁が大体、残っている、ほぼ方形の残塁。周囲約5km。城内の建物の遺構は破損がひどい。外城の西南隅にある寺院の遺構の面積は約1万uで、門、広場,殿堂、佛塔は保存状態がかなり良い。

高昌故城・2000/08/15

城内のすべての建造物は土をつき固めるか日干しレンガを積み上げて築き出入口、窓,頂部がドーム式が多い、現在のトルファンの建物に類似している。

玄奘・三蔵法師がインドへ求法の旅の途中、高昌国を通過した時は第4代目の国王麹文泰であった。麹文泰は熱心な佛教信者であり、玄奘を丁重に迎えて、永久に高昌国に留まることを懇願した。玄奘はインドに求法が目的で留まる事は出来ず、麹文泰のため1ケ月滞在して佛典の講義をした今も、玄奘三法師が講義したとされる土台が残り部屋が復元されている。

玄奘が高昌国を出発する時、麹文泰は玄奘のためにへのインドまでの旅費と通過する20余国みやげ物、人夫25人、馬30頭、道案内として歓信と言う役人をつけ西突厥の統葉護王まで送らせた。

然し、高昌国は玄奘がインド滞在中の640年、唐の太宗によって滅亡されてしまった。太宗は高昌国が西突厥と同盟を結んでいることを口実に兵をおこし高昌国を攻め滅ぼしたのだ。

麹文泰の娘が西突厥王の長子のもとに嫁いで、両国は友好関係にあったからだと言う



            


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