中国歴史紀行>25>西安碑林

   西安碑林
西安碑林は西安市三学街にある。西安碑林は正式には西安博物館。西安には博物館が2つある。西安碑林は正式には陝西省博物館。城内に在る。中国四大博物館の一つの陝西歴史博物館は小寨東路に面して在る。

西安碑林は1961年、国の第一級保護文化財に指定され、陜西歴史博物館と分離し「西安碑林博物館」と正式に名づけられた。 陳列室正面の中央に立っているのが碑林で最も大きな碑石の「石台孝経」。高さ5m、幅3mの4枚の青石からなっている。

唐の開成年間(836〜840年)に彫った十三経を北宋の元祐2年(1087年)に設置した碑石の収蔵地である。「京兆府新移石経記碑」によると、移された場所は立地が乾燥した場所で、地盤もしっかりして、碑石を収める建造物を建てるには条件が整っていた、その為に碑石はよく保存された。

現在は7つの展示室。6つの回廊、(建物をつなぐ廊下)。八つの碑閣。石碑を保護するためのあずま屋(碑亭)を一つ、約1000枚余りの碑石を収蔵し、漢代〜清代の著名な書家の精華を蔵し、中国の書の一級品の宝庫。

真、行、草、隷、篆、にわたり、特に唐代の欧陽詢、虞世南、李陽冰、顔真卿、柳公権、張旭、懐素、智永、李隆基、史維、真筆の刻石が極めて貴重。宋・元・明・清では、蔡京、蘇軾、董其昌、趙普A林則徐、らの墨跡も注目すべきものでり史料価値が高い。

第一室には、唐の文宗(第14代)の命により5年がかりで儒教の古典を刻んだもの、開成2年(832年)に完成した、”開成石経”と称される12部の経書がある。

昔、経書は主に転写によって傳えられ、誤りが多かった。唐代には、漢、魏の時代のように碑石に刻みつけて校訂する方法が受け継がれた。830年、唐文帝は国子監の鄭覃の提議を採用し、艾居梅、等に楷書で碑石に書き移すように命じた。

周易、尚書、毛詩、周礼、儀礼、礼記、春秋左氏傳、春秋公羊傳、春秋穀梁傳、考経、論語、爾雅。全部で百十四枚。合せて二百二十七面。

なお、清の康煕3年〈1664年)陜西巡撫賈漢復が”孟子”の石碑19枚を加えて、西安碑林には十三経のすべてが揃うことになった。それぞれ、経書の前には、何面の石碑が使われているかを示す立て札が立っている。

周易は第1面〜第11面まで、尚書は第11面〜19面まで、毛詩は第19面〜34面。周礼・儀礼・礼記(三礼)は第34面〜第105面まで、春秋3傳 (左氏傳・公羊傳・梁穀傳)については立て札が不明。考経・論語が第222面〜226面まで、爾雅が第126面〜127面まで。

第二室には、唐代の名碑が集められていた。欧陽詢の「皇甫誕碑」。顔真卿の「多宝塔碑」「争坐位稿」。柳公権の「馮宿碑」「玄秘塔碑」などがある。 又、唐の時、已にキリスト教が伝來したことを示す「大秦景教流行中国碑」もこの部屋に立っている。「大秦」とはローマ帝国。「景教」とはキリスト教ネストリウス派。の中国での呼び名。

唐の武宗の時代(841〜846)歴史に知られる排仏運動の影響で「大秦寺」は破壊されたが、この「国宝」は瓦礫の下に埋まって破壊を免れた。明の天啓3年(1623)荒廃した大秦寺を開墾した時、この「大秦景教流行中国碑」は再び世に現れた。

第三室には、秦の始皇帝の宰相でもあった李斯の筆と言う、小篆。                  第四室には、宋の蘇軾・明の祝允明の作品がある。                          第五室には、宋・元・明・清の各代の碑石が集められ、宋建隆3年の「重修文宣王廟記」     第六室には、元・明・清代の文人の自筆による詩詞歌賦がある。                   清の康熙帝・林則徐などの作品が印象に残る。

第七室には、陜西本淳化閣帖の石碑がある。これは宋の太宗の淳化3年(992年)翰林侍書の王著が勅命を受けて、漢から唐までの墨跡を摸刻した法帖である。碑林の東側の小さな庭の西壁には六つの刻石が展示されていた。近代の愛国詩人・書道家で国民党元老の「于右任」が草書で書した文天祥の「正気歌」であった。

于右任は1933年、彼自身が集めた漢代の「熹平石経」の残石を西安碑林に寄贈した、それは西安碑林においては最初の漢代の碑石であり、これまでに発見された「熹平石経」の残石の最大のものであった。彼は西安碑林の第一の功労者と言われている。「尚書巻第二」に今の年号「平成」のもとになった字句がある。兪、地平天成、六府三事允治、万世永頼。時乃功。「兪、地平ぎ天成り、六府三事まことに治まらば、万世永く頼らん。これ乃の功なり」

「碑林」,には01,02年「西安遊学」時,大学宿舎からバス乗車で3つ目のバス停。乗車賃,1元〜2元。然も,碑林入場券は「学割り」が通用し半額の20元。と言う便利さから午後の散策を兼ねて屡々,訪れた。碑林の傍の通路「三学路」が面白い,骨董品の商店が林立。ここから,「鐘楼」のメインストーリー通りまで徒歩で30分。

         ☆閑話休題☆

年号が『尚書』で由来するように、我われ日本人は漢字文化に恩恵を受けてきた。将来も漢字文化は生きつづけるだろう。中国は教育水準を高める為に推進されたのが”文字改革”
(1)標準語の制定。
(2)漢字を表記する為の表音文字の作成。
(3)漢字の簡略化、
を3本柱として進め、1965年「簡化字総覧」を公布。これに先だつ10年前、1955年「バンドン会議」の際、当時の日本政府代表、高崎達之助氏と中国の周恩來首相がこっそり会談した。

周恩来は 「中・日で同じ略字体を作る為に両国の学者の会議を持ちたい、政治体制は異なっていても、百年、千年後の子孫の遺産となる。」57年暮れ、外務省中国課長0氏は当時の岸信介首相に経緯を説明し指示を仰いだ。 答えは 『余計なことはしなくてもよい』 だった。

◆仔細に付いては朝日新聞社・93年2月28日付。98年11月11日付の縮小版は主要都市図書館、大学図書館で閲覧できる。

現在、両国は別々の略字を採用している。時の為政者は、識慮高卓を後世に示す

2001/10
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