中国歴史紀行>26>景山

     北京  景山公園

景山は故宮の神武門の向い側にある、と言うよりも真北にある小山。一名を煤山と言う。高さ92m余りの景山は又の名を万歳山とも呼ばれる。元代は大都城内の土丘で青山と言った。

明の永楽14年(1416年)故宮の造営の際、元代の旧城の撤去と紫禁城、(故宮)の護城河の開削で余った残土を堆積し万歳山と命名した。

皇宮がその麓を石炭置き場にしたので、俗称を煤山(メイシャン)と言ったと傳える。当時、石炭の使用はすでに、かなり普及していた。燃料の火力と容積から比較すれば、薪よりも石炭の方が小さくて済む。又、薪は歳月が経てば腐蝕して使用にならない。石炭は、もともと地中に埋もれていたもので、何十年、何百年のち掘り起こしても使用できる。石炭の山、その表面に土をかぶせた。土に覆われた石炭山を作り、それを紫禁城(故宮)の鎮山とした。

この景山で悲劇が演じられたのは、明の崇禎17年(1644年)3月19日、払暁。大明帝国は東に満州族の圧迫に苦しみ、西に李自成の造反軍に悩まされていた。明軍の名将、呉三桂は山海關の防戦に努めていた。呉三桂には蘇州美人、名を陳圓圓と言う女性を側室として北京に留めていた。身は軍線にあれど心は陳圓圓。

李自成は陜西の駅卒で日本で言えば、宿場人足や飛脚のような荷物運びの仕事。政府は費用を節約する為、駅站制度を廃止したので、李自成たち駅卒は忽ち失業してしまった。

造反勢力の中で李自成が台頭してきた。それは彼が強い指導力を持っていた。李自成は50万の農民軍を率いて北京城を包囲した。崇禎帝は重臣を集め方策を問うた。皆黙して語らず、「朕は亡国の君にあらざれど、臣はことごとく亡国の臣なり」 崇禎帝は吐き棄てるように言うと、内に篭ってしまった。

城門を開き李自成軍を迎え入れた宦官がいた。崇禎帝が最も信頼していた重臣の ”曹化淳”。丁度その時、呉三桂が明の精鋭50万を率いて北京城に向かっていた。呉三桂の明軍が北京城守備を固めていたら、歴史は変っていたかもしれない。

正陽門の楼上に”三つの赤い提灯”が揚げられた。城門放棄の合図であった。崇禎帝は時すでに決したとみた。永王と定王の二人の皇子に平民の服を着せて紫禁城から逃がした。周皇后はすでに縊死していた。娘の長平公主と昭仁公主を崇禎帝、自らの手で殺した。手を合わす娘に目を閉じて剣を突き出したと言う。

崇禎帝は宦官の王承恩と共に紫禁城を抜け出し、裏の景山に登った。一本の槐の樹に帯びを吊るして縊死した。遺書には 「賊が朕の屍を八裂きにしようとも、それは朕の厭うところではないが願わくは百姓の一人たりとも傷つくること勿れ」と書いてあったと傳える。崇禎帝の縊死した場所には、何代目かの槐の樹が植えられ、記念物として今も壽皇亭の前に保存されている。

宦官”曹化淳”は明末清初の混乱した世を泳ぎ回り、巨万の財をなし”曹老公觀”を建て、自らを祭る廟まで建てたと言う。(燕京歳時記・敦崇著・)

景山から俯瞰する紫禁城(故宮)は天下の絶景と言はれるが、特に晩秋の夕陽が故宮の右片隅の位置にある時は黄金が故宮を染める一幅の図と錯覚する。

李商隠の楽游原(実際は西安の青龍寺迹)の詩 「夕陽無限好。只是近黄昏。」を思い出した。

           ☆休息一下☆   § 思い出 §
     北京留学時、中国の小姐と北京動物園へデート、朱鷺が二羽いた。小姐そっと
     語る 「トキの名前はネ、QINgQINgとPINgPINgよ」時は1987年の晩秋でした。




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