中国歴史紀行>28>萬里長城

    萬里長城

紀元前5世紀、周の時代に北方騎馬民族の侵入を防ぐ為に築いた城壁が長城の始り、その後、 秦の始皇帝が天下の統一後、30万の軍兵と数百万の農民を動員して、戦国時代の各国が築た長城を連結、増修して今日の長城の規模が定まった。その後も代々、改修して利用され明代になって、北方では以前としてモンゴル族の進攻、北東でも女真族の勃興がみられ、従来の城壁の版築の部分を磚(レンガ)・石造りに改め、長城の全長は約6、700kmにも及んでいる。

西は嘉峪関(甘粛省)から東は山海関(河北省)2,400kmを整備し、長城沿いに多数の峰火台を設けた。故毛沢東も「長城に登らずんば、豪傑にあらず」と言う。

◆八達嶺長城。長城として有名なのが八達嶺。入口から向かって右が比較的穏かな傾斜の   「女坂」 左が勾配の「男坂」で最大傾斜は40度と言う。八達嶺付近の長城は地形を利用し、高低と幅が一定せず(平均して高さ6〜7m幅4〜5m)表面は同じ規格の大型城磚(城壁用の煉瓦)、底部は直方体の切石を積み、頂部は磚造りの腰壁と幅広の道を作る。内部は砕石と黄土を詰めている。

壁は隙間を設け、眺望と射撃の便宜を図っている。防御上から尾根の高所、城壁の曲がり角、  重要な地点に堡塁式の城台を設けている。清代になると、防御用の役割を失い、長年にわたっ て風雨にさらされたうえ、人為的な破壊を被ったために日を追って荒廃した。

◆慕田峪長城。八達嶺に次いで開放された長城。明代の前半に築かれた慕田峪は八達嶺に比 べてやや険しい。然し現在ロープウエイで観光が可能になっている。

◆司馬台長城。北京の東北にあり3番目に開放された長城。明代の戚継光が改修工事を行い起伏の激しい急斜面で有名。多数ある城壁の楼閣中、最も高い望京楼は海抜986mで、ここから眺望する長城は正に絶景。冬季は凍結の惧れがあるので、ホテルでタオルを貰いタオルを縦裂き2枚にして各々、シューズの底部からシューズを横に巻く様に硬く縛りつける。滑りを予防し比較的、安全に登れる。


                 
                 夕陽に奔しる巨龍・(萬里長城)  11.12.00

      参考文献(北京史)北京出版社。(北京風物志)北京旅游出版社。

◆万里の長城が新疆にも 西端はカシュガルまで、世界的に有名な万里の長城は新疆ウイグル自治区のロプノールまで続いておりその西端はこれまで考えられていた甘粛省の嘉峪関ではなかったことが、最新の考古学調査で明らかになった。

この発見で、長城の長さはこれまで知られていたものより約500キロ長くなったことになる。    新疆文物考古研究所の穆舜英研究員は、先ごろ行った調査で、甘粛省玉門関より西の荒涼とした砂漠の中に砂礫で覆われた土積みの壁が一直線に延び、途中途切れながらもロプノール北部まで続いていることを発見した。

中国文物学会の羅哲文会長(77)は「この土積みの壁は城壁、烽火台などを備え完全な防御システムを構築しており、長城に間違いない」と語った。また羅会長は「形状、材料、機能などからみてこの土積み建築は嘉峪関・玉門関で見つかった長城とほとんど一致しており、両者の違いは、どんどん西に建築されていく過程で、現地の材料をより多く用いるようになったことだけである」と語った。

穆研究員は「この地域の土積みの壁は、形状や規模からみて、明らかに防御のために人工的に作られたものだ。付近から、緑さびのついた青銅製の矢じりが大量に見つかっている」と語った。 長城は2000年以上前に建築が始まった軍事的防御施設であり、秦代以降、歴代の王朝が絶えず建築・改築を行ってきたもので、今回新疆で新たに見つかったものを加えると、その総延長は7200キロを超える。80年代、長城はユネスコから世界文化遺産に認定されている。

史書の記載には、紀元前2世紀に、漢の武帝が60万の民間人を動員し、敦煌から塩沢(現在のロプノール)まで長城を建築したと記されている。敦煌千仏洞の壁画にも、この地域の西域長城の記録が見られる。先ごろロプノールを訪れた新華社記者によると、基本的に東西方向に延びている城壁は、大半が崩れ落ち、所々で見えなくなってはいるが、高い所では2、3メートルに達し、果てしなく続く沙漠と真っ青に澄んだ広い空の下を、延々と続いているという。長城のふもとにはタマリスクの草むらなど、沙漠に強い植物が、まばらに生えている。

磚と石を積み上げた甘粛省以東の長城とは異なり、新疆の長城は大部分がアシやタマリスクの枝と黄土を交互に積み上げて作られている。新疆の長城はシルクロードを往来する隊商の安全を保障するために建築されたものと考えている。実地調査を行った新疆文物考古研究所の研究員はこの地域の長城は間違いなく古代シルクロードに沿って作られたものであると指摘した。

専門家は、ロプノールが必ずしも長城の終点ではないと推測している。羅会長は「ロプノール以西でも、烽火台はコンチ川沿いに、漢の西域統治の最高軍政長官だった『西域都護』が駐在していた今のビュギュル県ウレイまで続いており、その先のカシュガル地区にも続いている」と語った。

かつて有名な楼蘭王国を潤したロプノールは現在、完全に干上がっており、付近は無人地区になっている。楼蘭国はかつて漢王朝に従属していた。漢王朝は楼蘭に軍を進駐し屯田を行っていた

参考文献。 中国情報センター・中国考古学 01創刊号。


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