中国歴史紀行>26>寒山寺

    蘇州  寒山寺

蘇州市昌門の外、楓橋鎮にある。蘇州を訪れた人は必ず尋ねる名所。城外を巡る水路が続いて、 あちこちにアーチ型の石橋がかかっている。長崎に残るメガネ橋の元祖のような橋であり車は通れない、もっぱら人が歩いてのぼりくだりして歩いて行く。

梁の天監年間(627〜649)の創建で、初めは妙利普明塔院と言ったと伝える。唐の貞観年間  (627〜649)に高僧の寒山と拾得が住職をつとめたと伝え、のち寒山寺と改称された。清の咸豊10年(1860)に全山が戦火で焼失し、現存するのは清代末期に再建されたものと伝える。

寒山寺は新中国成立後、二度にわたって大改修が行われ、黄色の壁と緑の木立が荘厳幽深な 雰囲気を醸し出し、訪れた人々を引きつける。山門の横手に広いバス駐車場があり、バスを降りて 山門へ回ると、その前にはメガネ橋がある。橋の下に一艘の小船が停泊していた。

      楓橋夜泊   張継
月落烏啼霜満天。    月落ち 烏啼いて 霜 天に満つ
江楓漁火対愁眠。    江楓 漁火 愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺。    姑蘇 城外の 寒山寺
夜半鐘声到客船。    夜半の鐘声 客船に到る

唐代の詩人張継が寒山寺の近くを通った時、詠じた「楓橋夜泊」は人口に膾灸し、そのために、  寒山寺は天下にその名を知られるようになった。張継はこの一篇の詩のみで後生に名を残した。

寒山寺には明代の文人書画をよくした文徴明(1470〜1559)と清代の学者兪えつ(木扁に越の字)(1821〜1906)の詩碑の、それぞれの筆になる、この詩を刻んだ碑が残され、拓本が寒山寺の参拝記念にと人々から購買されていた。しかし、度々難に遭ううちに筆跡がぼやけてきたので、清の光緒年間に兪えつ(木扁に越の字)「1821〜1901」の筆で彫り直した。詩碑の表面の跋文は

「寒山寺舊(旧)有文待詔所書唐張継楓橋夜泊詩、歳久漫(シ+患)。光緒丙午於寺中新葺数楹、属余補書刻石。」と有る。

(訳文:寒山寺には旧と文待詔の書す所の唐張継の楓橋夜泊の詩有り歳久しくて漫(シ+患)せり光緒丙午、筱石中丞寺中に於て新たに数楹を葺し、余に属して補書せしめ、石に刻す。)

★文待詔:明代の時代蘇州の有名な文人。
★漫(シ+患):(文字や絵)はっきりしなくなったこと。中文ピンインで(man4,huan4)
★光緒丙午:清朝光緒32年(1906年)。
★筱石中丞:陳き龍。当時江蘇省の巡撫(総督)である。陳『き』龍の『き』は「荘子・秋水」の
(キはゲンをウラヤム)の『き』。中国語注音字母でKui(4声)。因みに角川・新字源ページ230。
★葺 :修繕・ 新築
★楹 :元は母屋の正面の柱。ここは部屋、建物の意味。
詩碑は年代もさることながら、拓本作業の関係からか磨耗し現在の詩碑は数代目のものと伝える。

詩碑の背面には「江楓漁火の四字は頗る疑わしい。宋きょう明(きょう、は龍の下に共の字)の中呉紀聞には江村漁火となっている」と考証されている。

また、碑楼をはじめ殿閣や渡り廊下の壁にも、清代の羅聘と鄭文(火扁に卓)の描いた寒山・拾得 豊山・の画像をはじめ、韋応物、岳飛、唐寅、王士禎、康有為ら歴代の名士が寒山寺を詠じた詩文の碑刻を数十枚はめこんでいた。張継の詠じた古鐘は時代の変遷を得て無く、明代の嘉靖年間に 鋳造された鐘は日本に流出したと伝えられ、光緒31年(1905)に寺を再建したさい、資金を募って鋳造された唐風の銅鐘が日本から送られ現在、大殿の右側にある


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