中国歴史紀行>3>北京の九壇

   北京の九壇 

北京の九壇は社稷壇・祈穀壇・天壇・地壇・日壇・月壇・先農壇・太歳壇・先蚕壇。この九壇はいずれも明朝・清☆社稷壇 明朝時代・永楽十九年(1421)に建立された。今の天安門の西側・中山公園のある。毎年春秋・皇帝はここで土地の神と五穀の神を祭った。

☆祈穀壇 明朝時代の嘉靖年間(1522−1566)に建立された。今の天壇公園の中にある。 毎年正月・皇帝はここで上帝を祭り・穀物の豊作を祈る儀式を行った。清朝の乾隆十六年(1751)祈年殿と名を改めた。観光名所としても人氣が高い。もとは南京にあったものを、明の永楽帝が北京遷都後に現在の場所に移した。円形の美しい建造物。何時見ても美しい。天壇のシンボル。
 
石段三、四段目くらいが記念撮影の好い場所。多数の記念写真でもここからは壮大な祈年殿の全景を写すことも出来る。正面の額に「その年の農作物の豊作を祈願する殿堂」という意味の文字が確認できる。高さ38b、直径30b。傘を広げたような屋根と藍色。天空の色彩との対比が言葉ではいいようのな素晴らしさ。一本の釘も使っていないと言う、その天上からは、当時の匠の卓越した技術がしのばれる。

中央の太い四本の柱は四季を表し、内部の内側の12本は1年を、外側の12本は十二支を、内外24本の屋根は二十四節気を、それぞれ表していると言われている。

☆天壇  明朝時代の嘉靖九年(1530)祈穀壇の南側に建立され・圜丘壇とも言う。冬至に天を祭った。圜丘、皇穹宇(回音壁)、祈年殿はすべて円形に建造されている。これは「天は丸いもの」であるという発想からだと言う。圜丘は三層からなる漢白玉石で築かれている。各層の手すりも階段もすべてが「陽数」。「九」であり、またはその倍数になっている。

最上部の中央の敷石だけが円形で、後は扇型の石の上に皇帝が立ち天に祈ると、その声がこだまして周囲に人々にも聞こえた。神の声と感じたのか。圜丘の最上部では大勢の観光客の人々が空に向って大声あげたり、記念写真の場所として賑わっている。

皇穹宇(回音壁)。 この円形の建物の中には神々の位牌の安置場所がある。この皇穹宇の外側の円形の壁は耳を当てる人でいつも賑わっている。内側の壁が滑らかであり、内部が空洞になっているために、この壁に向って話すと反対側にいる人までに伝わる。この壁が回音壁。

また皇穹宇の前に並ぶ石畳の石を三音石と言う。一番前の石の上で一つ手をたたくと、一つの反響音。二番目の石の上では二つ。三番目の石の上では三つの音が返ってくるので「三音石」の名がある。

☆地壇。 今の安定門外に建てた”方沢壇”とも言う夏至の日に土地の神を祭った。天壇と対照的に故宮の北側を真っ直ぐ北に向うと、1530年に創建された地壇公園がある。大地の神を祀る場所である。春節に中国朋友家族と訪れた時には周囲に”市”がたち、とても賑やかであった。下町の雰囲気があり散策には充分、楽しめる。

☆月壇。 阜成門外に建立・秋分には月を祭った。四つの壇の中で一番小さい印象を受ける。月は中国では夜明けの神様と言われて、その神を祀る場所であり、月に従う木星、火星、水星 金星をはじめとして、すべての星を祀る場所であった。1530年の創建は方形の台座が当時の様子を今に伝える。

☆日壇。 阜成門外に建てて秋分には月を祭り春分には太陽を祭った太陽を祀る場所であるの で円形の建造物と想像する。しかし見て驚く、方形の壇が築かれている。昔は円形であったものが、後に方形に改められた。と伝える。

☆先農壇。 明朝の嘉靖年間の中期に古代の伝説による農業と医薬の祖・神農氏を祭る為に建立・清の皇帝は毎年ここで神を祭り、自から農具を使用したと言われる。

☆太歳壇。 今の永定門内の先農壇の近くにある。嘉靖十一年(1532)に建立・太歳神は正月の当番の神で、皇帝は毎年の正月の初めと十二月の末の二回、ここで線香をたき、頭を地につ  けて拝んだ。

☆先蚕壇。 今の西苑の東北にある。清朝の乾隆七年(1742)に建立された。毎年春、皇后はここで桑を祭って拝んだ。妃が代行することもあった。





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