中国歴史紀行     (32)

         諸葛武候祠

武候祠は成都市の南にある。劉備に仕えた名軍師・諸葛孔明(181−234)を祀ったところ。面積3万7000uの広大な敷地。元来この地には劉備の墓と彼を祀る先主廟があり、孔明を祀る武候祠は西にあったと伝える。『三国志演義』によって忠節謹厳をもって知られ三国の中で弱体であった蜀漢を盛り立てた政治家で三国志の愛読者ならずとも誰でも良く知っている人物。

西晉代末期、十六国の成漢(304−347)の李雄が三国の蜀の丞相であった武候諸葛亮を記念して少城内に創建したが、のちに現在地に移したのが武候祠の始まりと伝える。

蜀の先主劉備(161−223)の昭烈廟に隣接していたことから、明代初期に昭烈廟に吸収され、 両社殿が一体化し今日では諸葛武候祠の方が盛んになった。これを象徴するかのように大門の横額には『漢昭烈廟』とある。

               

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諸葛武候祠の名前を高くしたのは唐代の大詩人、杜甫(712−770)である。
     蜀 相  (成都の諸葛亮の廟に謁して作る)
丞相の祠堂 何の処か尋ねん。錦官城外 柏 森森たり。・・・・・・・
三顧頻繁なるは天下の計。 両朝開済するは老臣の心。
出師未だ捷たず身先ず死す。長く英雄をして涙襟に満たしむ。

と詠じている。現存の殿宇は清の康煕11年(1672)のもの。
正に柏の老木が生い茂り優雅な雰囲気の漂う中、青瓦と赤壁が見え隠れし、雄壮な殿宇が聳える(2)武候祠の大門を入ってすぐ右側にあるのが 『三絶碑』である。唐の元和四年(809)の建立。宰相の裴度の撰、書家の柳公掉(柳公権の兄)の筆。名匠の魯建の刻で、文章・筆跡・彫り・とも、極めて勝れているので、俗に三絶碑と言う。

由来については2説あり、1つは、明の弘治10年。(1497)四川巡按の華榮が碑に「人は文に因りて顕れ、文は字に因りて顕る。然らば則ち武候の功徳、裴・柳の文字、其れ相與に宇に垂れて不朽なり」と題し、孔明の功績、裴度の文章、柳公掉の筆跡をたたえた。

もう一つは、道光9年(1829)に華陽の挙人の潘時丹の編んだ「昭烈忠候陵廟志」に、文章・筆跡彫り・がいずれも勝れているのに由来するとある。(中国国家文物事業管理局編・中国旧跡事典)劉備殿の東壁に近代の沈尹黙筆の「隆中対」。西壁に岳飛筆の「出師の表」の木刻がある。

東西の配殿には関羽・張飛らの塑像を安置し、東西の回廊は文・武の廊房で、蜀の28人の文官と武将の生き生きとした塑像が並ぶ。諸葛亮殿は中央に金貼りの武候像、その左右に子どもの諸葛瞻と孫の諸葛尚の塑像を安置する。

諸葛亮の像の前にある3つの銅鼓は諸葛鼓と言い、6世紀以前のものと伝える。諸葛亮殿の西側に劉備の恵陵がある。封土の高さ12メートルで、周壁をめぐらし、劉備の墓に続く道は掘りの赤と竹の緑が美しい。


         

           (劉備の墓)                 



2001/08/13


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